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フランソワ・オゾン『グレース・オブ・ゴッド』

By the Grace of God | Official UK Trailer [HD] | In Cinemas & On Curzon Home Cinema 25 October - YouTube フランスを代表する監督にまでなったフランソワ・オゾンが、これまでの癖のある“技”を捨てて、そこにある問題を着実に捉えていく『グレース・オブ・ゴッド』を撮ったことに驚きはありつつも、このテーマを扱い映画としての完成度も担保したことに賞賛するしかない。そして、これを撮れる映画監督であるのだ、ということを改めて認識しました。プレナ神父事件(児童への性的虐待事件)というセンセーショナルな問題に誠実に向き合い、感情を込めて観客に投げかけている。映画の力を信じているのだ。

ストーリーは3部構成。アレクサンドル、フランソワ、エマニュエルがそれぞれの社会階級の代弁者として訴えるのだけれど、この3人の目を通すことで、現在のフランス社会を見事に映し出している。個人の目線で語られる社会ということが素晴らしいまでの映画であり、フランソワ・オゾンの撮る力を実感できる。そして、信仰(宗教)というものが社会の全層に浸透し、もう決して切り離すことのできない、欠かせないピースとして組み込まれてしまっていることを少しずつ丁寧に描写するのであって、しかし、その本来ならば拠り所であるはずのものは全く持って優しくないことがだんだんと明らかになってくる。その事実もまた、映画というには少し単調すぎるほどに冷静に着実に描いていく。ファン・ドンヒョク『トガニ 幼き瞳の告発』のような扇動的な光などは用いず、その社会に住む人々の日常に潜む苦しさを映し出していく。しかし団体で話し合うシーンには幾ばくかのユーモラスを含んだところもあったりするバランスもいい。

3部構成の最後の章でスポットライトが当てられるスワン・アルローという俳優が表現する喜怒哀楽には人間としての葛藤のようなものが多分に含まれている。疲れて遠くを見つめたり、「1人じゃないって最高だな」と微笑んだりする仕草が、生きるということを豊かに体現している。バイクに乗って、その走行音に感情を伴わせる目の力も魅力的である。

この映画の特にすぐれている部分として、個人的暴力と構造的暴力が複雑に絡まっていて、不可分であること、あまりにも苦しいその事実を誠実に、そして冷静に描いていることが挙げられるだろう。映画が進むにつれ、あるひとりの神父による児童への性的虐待は、構造の一部になって隠されてしまっていることが浮き彫りになり、もはや一人を罰することで解決できるほど単純ではなくなっているのであった。平和研究の古典書でもあるヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』から幾らか引用してみる。

主体–客体関係があきらかな暴力は、それが行為という形をとるので顕在的暴力である。ドラマを考えてみればよい。そこには暴力を行使する人がいるから、これは個人的暴力である。

(中略)

主語–動詞–目的語という基本構文と同じ構造をもっており、容易に言葉で理解し表現することができる。この場合、主語と目的語はいずれも人間である。このような関係を欠く暴力は構造的であり、それは構造のなかに組み込まれている。それゆえに、一人の夫が妻を殴った場合には、それはあきらかに個人的暴力の例である。しかし、百万人の夫が自分たちの妻を無知の状態に置いておくとすれば、それは構造的暴力となる。同様に、上層階級の平均寿命が下層階級のそれの二倍である社会では、ある人が他の人を殺す場合のように他人を直接攻撃する具体的行為主体を示すことはできないにしても、暴力が行使されていることになる。

ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』

『グレース・オブ・ゴッド』での個人的暴力は、映画の開始早々に顕在化するのだが、何故だかそれは一向に排除されない。そして、構造へとカメラが向けられていく。

マットレスのなかの圧縮バネにはしかけがあるように、個人的暴力はシステムのなかに組み込まれているのである。しかけはマットレスを分解したときにはじめて姿をあらわす。

ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』

本作での構造的暴力を形作るものとは、個人的暴力を振るっているわけではなくとも、その事実を知っていながら沈黙を行使する閉鎖的な組織であり、社会で生きているために声を上げられないこと(これが本当に難しく、告白することを躊躇ってしまうのを利用する相手の汚さ)であり、構造を維持し続けてしまう助けをする“時効”の制度であった(しかし、この時効についてももう少し議論が必要かもしれない)。

個人的暴力を除去しつつ社会的な不正にたいする闘いを進めていくために必要な、より豊かな概念と多様な社会行動が出てこないと信ずる理由はなにもない。いずれかの目標のために犠牲にすることを躊躇しない人はいくらでもいる。

ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』

現在進行で進むこの閉口してしまうほどの事象に、我々ができることといえば、映画を観るくらいなのか、映画の力を信じることしかないのだろうか、しっかりと訴え続けなければならないだろう。