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坂元裕二×土井雄泰『花束みたいな恋をした』

f:id:You1999:20220419024857j:image坂元裕二による初のオリジナル恋愛映画。監督を土井裕泰、ダブル主演を菅田将暉有村架純が務める。ある社会で生きる登場人物たちの苦悩や生の煌めきを描いてきた坂元裕二が本作では徹底してそういったものを排して、ありきたりな恋愛映画として描いたのが『花束みたいな恋をした』である。信じられる理想や目的などが消失してしまい、大きな物語がなくなった現代社会において、趣味嗜好で紡がれるこんな小さな物語こそが愛おしく、それが結びつくことで何か大きなドラマ性が帯びるのではないかと男女の恋愛の美しさと切なさにカメラが向けられる。本作に登場する固有名詞の数々はそんな現代に生きる私たちに欠かせないアイデンティティであるからして、たとえフィクションであろうと、偽名であってはならないと、押井守cero、フレンズ、きのこ帝国、穂村弘長嶋有いしいしんじ堀江敏幸柴崎友香、今村夏子、『ストレンジャー・シングス』、『ゴールデンカムイ』、『AKIRA』etc…とどれもが実名で登場する。

坂元 最初は、ちょっと常識はずれな人物たちーー例えば、『ブルー・ジャスミンとか』とか『ヤング≒アダルト』のような、世間とうまく折り合えない男女が出会う話をやろうかなって、土井さんとプロデューサーの孫さんに話していて、三ヶ月くらいずっと書いていたんです。でも、しっくりこなくて、うまく書けない。

〈中略〉

コミュニケーションが苦手な人たちのラブストーリーとか、自意識が強い人たちのお話って、いまの日本映画にいっぱいあるから、わざわざ再生産することもないな、と。

ユリイカ2021年2月号 特集=坂元裕二』対談1 坂元裕二×土井裕泰

しかし、その固有名詞に過度に傾倒しているというわけでもないし、それによって狂わされてしまうという人物造形でもなく、そのような2人が運命的に出会う(ついに出会えた)、また出会うことによって救われるというような物語でもない。偶然出会い、偶然話が合い、偶然好きなものが少しずつ同じであった。それがなんだか素敵なように思えて付き合うことになる普通の物語だ。

 

あの子たち音楽好きじゃないな

こんなセリフから物語は始まる。イヤホンを一本ずつ分け合うカップルへの文句を言う麦と絹を交互に映すことで、2人が似たもの同士であり、そして、なかなかに癖があるようだぞと私たちは身構える。そこで、パート1が終わり、時間が遡りパート2*1になると、まずもって“お笑い好きじゃないな”というようなことが起こるのである。絹は天竺鼠のチケットを持っていながら久しぶりに会った男の人と焼肉を食べに行ってしまうし、麦はうっかり忘れていたという理由で天竺鼠のチケットを無駄にしてしまう。そんなわけはないのだ。抽選に申し込んで「よっしゃ!当たった!」と歓喜して、その日を期待しながら待つ。その席に座れなかった人がいるというのにそんな理由で行かなかったのか…という溜息しかない*2。たいそうお金持ちなんだなあと思って観ていると、 

「金がないから文庫本を待ってからなんですけどねえ〜」

「私も図書館とかで!」

という会話がされる。お金がないというのに、3000〜4000円ぐらいのチケットを簡単に捨ててしまうというちょっと不思議すぎる展開である…*3。しかし、それが2人を出会わせてくれた運命のチケットへと様変わりすることで、ポップカルチャーへの愛がいとも簡単に2人の“恋”を紡いでくれるのだ。ここにきて、「あの子たち音楽好きじゃないな」というセリフが頭のなかでリフレインする。簡単にお笑いチケットを手放すということができてしまう2人が、「おっしゃ、イヤホンを一本ずつ分け合うのはダメだよ!って教えてあげなきゃ。なんでダメかっていうとね、音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで…」とわざわざ席を立つような人間だとはとても思えない。そう思いながら観ていると、イヤホンのくだりはファミレスで出会ったおじさんからの受け売りだったということがわかる。イヤホンをめぐる共有→分断→同じ音楽をというイメージを恋と重ねているのはわかるのだけれど、最初のカットバックによる2人のイヤホン文句のシーン、そして教えてあげようと席を立つのはかなり浮いてしまっているような気もする。そんなことを言う2人ではないとも思うのだけれど、しかし、そもそも私たちは2人がどのような人物であるかを判断するまでの情報を画面からは得られない。ちぐはくした印象さえ受け取ってしまう感じもある(天竺鼠のお笑いチケットのせいかもしれないけれど)。

通過儀礼的なイベントへの2人の反応とモノローグの呼応によって説明されることで私たちは2人の感情やそのスレ違いが起こってしまう変化などを理解できているように感じるわけであるのだけれど、それ以外のところの余白が結構多いので、なかなか2人がどういった人物であるのかが掴みづらくもある*4。麦のイラストへの向き合い方、絹と麦の関係の変化などなどは一定程度観客へと委ねられる。しかし、その余白に観客が個人的なエピソード、経験を埋め合わせることで所謂、くらってしまう映画にもなるわけであり、そうであるからこその時を経るたびに現れるポップカルチャーの数々(『わたしの星』、『ゼルダの伝説』、『A子さんの恋人』、『茄子の輝き』、『ゴールデンカムイ』、『ストレンジャー・シングス』、『マスター・オブ・ゼロ』etc…、そして本作ではその反対に位置する『パズドラ』や『人生の勝算』)が麦と絹、そして私たちの時間を形作り、思いを馳せることができるのかもしれない*5。普通の人々を描くことを決めた坂元裕二はこれらの大量の物質を入れることも決めたのであり、それは物質的には豊かであるのだけれども、どこか精神的にストレスフルな社会で生きることが自明となってしまった現代にいる私たちのリアルを作ることでもある。

そういう現代社会で生きる私たちを反映しているものとして、本作にも度々登場する今村夏子という小説家が描いている入れ替え可能性とでもいうようなモチーフも麦と絹が社会と相対し、適応することになる中で浮き彫りになっていく。今村夏子『こちらあみ子』に寄せている解説で、町田康は私たちが現代社会で愛するということをこう綴っている。

例えば、この世で一途に愛することができる人間はどんな人間か、について言えば、世間を生きる普通の人間には無理だ、ということになる。なぜかというと世間には様々の利害関係が錯綜していて、その世間を生きるということは、自らもその利害関係のネットワークの一部になってしまい、それは一途に愛することの障害になるからで、したがって、一途に愛するためには、世間の外側にいなければならない。しかし、人間が世間の外側に出るということは実に難しいことで、だから多くの場合は一途に愛することはなく、他のことと適度にバランスをとって愛したり、また、そのことで愛されたりもする。つまり殆どの人間が一途に愛するということはないということで、一途に愛する者は、この世の居場所がない人間でなければならないのである。

今村夏子『こちらあみ子』-町田康 解説

麦と絹も勿論私たちも、世間の内にいるわけであるから、どうしようにも適度にバランスを取ることを強いられる。適度にバランスを取るということは、どれにも同じずつだけ触れるということではなくって、ときには仕事の割合が大きくなったり、ときには趣味の割合が大きくなったり、ときに恋人の割合が大きくなったりなどなどするわけである。そういう割合を調節するために少しずつ持っているものを別のものと入れ替えていく*6。麦はイラストを描く仕事から就職、絹と共有していたものから『人生の勝算』『パズドラ』へと入れ替え、絹もまたフリーター、就職、転職、そしてそのときに応じた様々なポップカルチャーを入れ替えながらバランスを取っていく。今までは同じ割合であった部分が徐々にズレ始め、最も大きな部分が2人の間で変わってくのだ。そして、そんな入れ替えていく行為が自分自身に向いてしまうと、麦のイラストが“いやすとや”に簡単に置き換えられたり、本作にも出てくる「俺は労働者じゃない」というトラック運転手のような資本主義的な有り様を浮かび上がらせたりもしてしまう。穂村弘はそんな私たちを「ありえる」存在であるとする。

現代社会で「ありえる」ために、私は様々なものに意識を合わせようとする。場の空気とか効率とか「イケてる」とか。その作業は大変だけど、そうしないと生きていけないと思うから、できるだけズレないようにがんばり続ける。

記念日を忘れないようにして、シャツの裾をちゃんと出して、飲み会の席順の心配をして……、ふと不安になる。この作業で一生が終わってしまうんじゃないか。何か、おかしい。大事なことが思い出せそうで思い出せない。ただ、「ありえない」の塊のようなあみ子をみていると勇気が湧いてくる。逸脱せよ、という幻の声がきこえる。
でも、こわい。あみ子はこわくないのだろうか。だって世界から一人だけ島流しなのに。

穂村弘 ----今村夏子「こちらあみ子」書評 “ありえない”の塊のような女の子----

「ありえる」という代替可能な存在であることを麦は目の当たりにし、そうであるからこその責任を感じ、気楽な後輩や「やりたくないことはしたくない」という絹に対して憤ったり、そういうことが重なって2人のバランスが崩れると別れを決断することになったりするのかもしれない。

そして、訪れる別れを告げるファミレスシーン。かつて2人がいた席に入れ替わるようにして細田佳央太と清原伽耶が座っているように、麦と絹2人の出会いは運命的なものなどではなく、ありふれたどこにでもある恋なのだった。本を取り替えっこしたりと会話のそれもほとんど同じ*7。しかし、麦と絹が同じポップカルチャーを摂取していようと同じ人間でない、他者であるのと同様に、麦×絹というカップルもまた細田佳央太×清原伽耶というカップルとは全く違う、別物なのであって、そこでありふれているからこそのかけがえなさのようなものが立ち上がってくる。人間は死んでいくし、恋も終わっていくのだけれど、そこには他のどれとも入れ替えることができない代替不可能性がある。「ありえる」かもしれない、けれども入れ替えることなどできない。その絶対的な眩さは確かな恋の素晴らしさと切なさを孕みながら花束みたいなものとして心の中に残り続けるのである。

 

『花束みたいな恋をした』は素晴らしい作品であるけれども、坂元裕二の脚本に期待していたようなものがスクリーンにたくさん映っているとはあんまり思えないし、ドラマで観たかったというのも正直なところである。全体的なものは『ユリイカ2021年2月号 特集=坂元裕二』にある金原由佳の評の最後が端的に言いまとめてくれているので、それを最後に引用してみたい。

坂元はこの物語を書くうえで、日記のように日々の暮らしを記録したものというイメージがあったというが、基本的に第三者に公開することを第一の目的としていない日記の性質を考えると、この『花束みたいな恋をした』の世界はそこまで閉じているようにも思えない。全篇誰ともなしに語り掛けてくれる絹と麦の率直な心情を綴ったモノローグの呼応があるからで、そういう意味ではこれは、通りすがりの人たちが読むことを前提とされた、極めて上質な書き手が綴った雑記帳の味わいがある。風俗映画といった生々しさや、重たさを持たないのはそのためで、このノートにたどり着いた人のみに許される至福な時間。

このような重くもなく、軽くもない、坂元裕二の脚本による映画はもっと増えてもいいのではないか。

ユリイカ2021年2月号 特集=坂元裕二』可憐な花束を持って――再びスクリーンに舞い降りた坂元裕二

このように、日記のような深いところまでは麦と絹が描かれているようにはまあ思えないのだけれど、重くなく、軽くもないという“普通”の恋愛映画であるからこその素晴らしさのようなものは確かにあると思う*8。でももうちょっと坂元裕二の麦と絹がどんなやつなのか知りたかったなあっていうのがちょっとだけあるのです。

 

ここからは完全なる余談なんだけれど、『桐島、部活辞めるってよ』の先輩(高橋周平)が同じく先輩役として登場したときにはやっぱり嬉しいと思ってしまった。「とりあえず5年頑張れば楽になるよ」と声をかけたり、さわやかのハンバーグを食べる姿は、東出昌大に程よい距離感で語りかけ、甲子園を目指してバットを振り続ける彼そのものであった!『桐島』の東出昌大と『花束』の菅田将暉を重ね合わせての高橋周平というキャスティングは完全に狙っているだろうし、なんて安心感をもたらしてくれるんだ高橋周平よ!という感じであります。

あとは、上目遣いでの八木アリサによる

一回麦くんとちゃんと話したかったんだよね

という「あざとくて何が悪いの?」も見逃せない。心の中で田中みな実弘中綾香がボタンを連打していました。麦くんはこの「あざとい*9」にかなり振り回されている。カラオケに誘われて行ってみると当の本人はいなかったり、そのあとでお店で会っても何ともなしにあしらわれてしまうし、それで、「一回麦くんとちゃんと話したかったんだよね」とか言われてしまうのである。それでも席に加わりお話をする健気な麦くん。八木アリサの魅惑に誘われながらも、絹ちゃんを追いかけたところは本作1番のドラマ性があるところではないでしょうか。

 

 

*1:ラーメンを食べてエプロンをつけたままで歩いてる絹はかわいいし、こういうシーンが少なかったように思う

*2:私はこの前、『ニューヨーク×カナメストーン』の抽選が外れてしまったのだけれど、もしもこんな人が当たったりしていたら悲しい

*3:パンフレットによる2500円、そんなに安いんだっけか

*4:この麦と絹の余白を考察する動画は大島育宙YouTubeチャンネルで見ることができます

*5:しかし、固有名詞を取り去ってしまったら、類型的でしかない漂白された人物描写になっていやしないかというのがある

*6:本作にも出てくる文学ムック『たべるのがおそい』で5年ぶり2作目と久しぶりに書かれた今村夏子『あひる』という小説は子どもたちを家に招くために、あひるを2代、3代と代替していきながら、“あひるのいる家”を作り続ける両親、そしてそのことを困惑しながら観察する主人公が描かれている。バランスを取るためにあひるを途切れさせてはいけないことが淡々と描かれている

*7:でも、BAYCAMPに行けなかった清原伽耶の理由がインフルだった。細田佳央太はちゃんと現場に行っていたし

*8:なんか変にこれは恋愛映画の傑作だ!みたいな感想が多い気がする。そういんじゃなくて、フツーの映画だからいいんでしょ、と思う

*9:もしくはただ悪い人