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ヨルゴス・ランティモス『哀れなるものたち』

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人類は進歩できるのか

西洋哲学的価値観を内包するこの科白は、本作で何度も問いかけられる。そして、それを体現するかのように、ベラ・バクスターエマ・ストーン)は、問答を行う哲学者のように他者と出会う旅に出るのだった。異なる価値観に触れ、自らを変革していくことによって、魂の向上をめざす旅だ。

自死を選びその生命に終止符を打ったはずが、マッドサイエンティスト、ゴドウィン・バクスターウィレム・デフォー)によって胎児の脳を移植され、新たな人生が幕を開ける。生命を新たに始めるのであって、その旅路に現れるすべてのものがその目には新鮮に映る。人々が行き交う街並み、異国の風景、甘いお菓子、喉を焼くようなお酒、セックス、貧富の差…そして、旅の途中で出会った婦人から「思考することの楽しさ」を学び、人類は向上できるのか(善き生とは…?)という哲学的な価値観を抱くようになる。壮絶な貧富の格差や荒廃した島で命を落とす子どもたちを目の当たりにし嘆き悲しむだけど、それ以上何もできない無力感をも味わうのだった。旅を共にするダンカン(マーク・ラファロ)から収奪したお金を恵んであげるが、その行為によって世界が変わる(進歩する)ことはない。むしろ上から下への関係は、その構造を固定化しかねない問題をも孕んでいる。また、結局のところお金は貧しい人々のもとへと到達することはなく、市井の人々の凡庸な悪意に阻まれてしまうのだった。個人の行為は無意味ではないが、構造に対して何かしらの作用を及ぼさないといけない難しさがベラの善意の前に屹立するのである。

すべての財産を失ったベラとダンカンは、冬のマルセイユに降り立つ。ダンカンと別れたベラは、他者の恣意的な意志ではなく、自らの意志に基づき娼婦となる(あくまで状況的にそうなるのだけど)。自律の理念とつながるその意志によって、自由を獲得するのだ。そう、ここは革命を成し遂げたフランスの地であった。マッドサイエンティストによる軟禁から脱し、色男ダンカンの執着からも解放された。ベラはあらゆる男とセックスすることで新たな世界を発見できるし、ついでにカネも貰うことができる。さらには稼いだカネで勉学に励むことも可能になる。万事順調であった。そんななか、育ての親(産みの親?)であるマッドサイエンティストが危篤状態であるとの報せが届き、ベラは彼のもとへ帰還することを決める。そこにはかつて子ども時代に婚約したマックスもいるのだった。

旅から戻ってきたベラとマックスは婚約を確かめる。「娼婦であったけれど、気にしない?」とのベラからの問いかけに、マックスは「君の身体なんだから、君の自由にすべきだ」と言うのだった。身体の所有権は自らにある、と。ベラが娼婦になることを自らの意志で決定したのと同様に、その身体を扱うこともまた自らの意志に帰属するのだということである。徹底した自律の概念が本作を貫いていることがこれらのことからもよくわかる。

それでは、本作の冒頭に遡って思考してみよう。本作の冒頭とは、ベラの身体(母親?)が橋から飛び降りたシーンである。身体の所有権は自らにある。であるならば、自らの身体を自らの意志によって処分すること、つまり、自死を選ぶことは当然に認められるべきだろうか。ベラが軟禁状態や醜い束縛から脱したように、生命を断ち、苦しみから解放されることもまた当然に与えられた権利であろうか。しかし、私たちはそれに首肯することはできないだろう。なぜなら、物語の終盤を目撃すれば明らかなように、彼女はその構造に苦しめられていたのであって、幸福な環境下ではあれば死を選ぶことはなかったからである。ブレシントン将軍による抑圧的な構造的暴力によって、ベラの母親は死を選ばざるをえなくなったのだった。

そこでベラはある案を思いつく。そう、人類を進歩させるのだ。しかし、ブレシントン将軍とヤギの脳を入れ替え、抑圧的な態度を取れないようにするラストシークエンスは、一面的には爽快でありながらも、本作が目指そうとしている射程には届いていないのではないかと思ってしまう。なぜなら、ブレシントン将軍の外部にもまた、暴力的な構造が存在しているからである。有害な男性性をもつキャラクターを担わされているけれど、彼は生まれながらにしてそのような抑圧性をもっていたのだろうか。社会や時代状況による構造的な要請が彼をそうたらしめたのではないか(ベラが知性を獲得していったように)。本作において、その外部にある構造は描かれていないのである。その先にこそ、ベラが目の当たりにし、そして、進歩させたい世界の残酷さがあるはずだ。

また、ベラはブレシントン将軍をある意味でモノ化したともいえる。自分の思い通りに、自分の思い描く「進歩」のために。それは、娼館でベラが商品化されたこと、マッドサイエンティストがさまざまなキメラをつくりだしていたこと、ベラが去ったあと新たなフランケンシュタイン・フェリシテを誕生させたこと、ダンカンが自らの思い通りにしようとベラを箱の中に入れたことと延長線上にある。自律や意志の重要性を謳ったであろう本作は、まさにそれによって他者の自律を奪ったのである。ヨルゴス・ランティモスの映画は、構造的な要因の複層性から逃れられないことを示唆するものが多い。例えば、過去作『ロブスター』は、人間をモノ化(管理)する物語であり、そして、それから逃れようと森へ逃げ込み個人としての自由を獲得するが、その森にも人間をモノ化するようなルール(構造)があることを突きつけるものであった。西洋的な自律を重視する態度や個人の努力だけでは、構造の変革は成されない(しかしながら、その崇高な理念が重要であることもまた事実なのだ。だが、知能と自律を獲得する物語であるだけに、まさにそれを線引きに劣っているものを軽んじるような眼差しを感じ取ってしまったのは私だけだろうか。ヨルゴス・ランティモスの作品からは我々と他者を分つようなオリエンタリズム的なものを感じるのだ)。その虚しさを描くためのショットはなかったように思うし、結局のところ、救われるためにはその構造における権力の座につくほかないことをも示唆するようなヨルゴス・ランティモスのニヒルな笑みを否定しないことには、「人類が進歩できる」日は到来しないのではないかとさえ思ってしまうのだ。