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ヤマザキコレ×WIT STUDIO『魔法使いの嫁』1期〜2期(1クール)

f:id:nayo422:20230603160322j:imageアニメ『魔法使いの嫁』SEASON2の1クール目が終わったので、1期と合わせた感想を残しておきたい(2クール目は10月)。まず、1期に関して簡単なテーマ設定をしてしまえば、「構造的暴力と自律」であったように思う。生まれた時から人ならざるものを見ることができてしまう15歳の少女、羽鳥チセは、この世界で生きることと自らの生命を捨て去ることに決め、謎の男の薦めるままに、自らを商品として闇のオークションに差し出したのだった。もはや未来において、なんらの希望をも想定していなかったチセであったのだけれど、エリアス・エインズワースという魔法使いによって500万ポンドという値で落札されることでその最悪な見通しは避けられることになる。エリアスは、チセに魔法使いとして大きな素質を持っていることを明かし、自身の弟子にしつつ嫁にするつもりであることを告げ、温かいお風呂や心地よいベッドを与えるのであった。そして、エリアスや家事妖精のシルキー、使い魔のルツなど寄り添ってくれる家族ができ、新しく住むことになったロンドンの片田舎は、チセにとってかけがえのない場所になっていく。このとき、人ならざるものを見ることができてしまうチセの本質性がゆえに居場所がなかったのではなく、あくまでもそこにおける構造がゆえにそうなってしまっていたことが明らかになるのである(そして、それは1期後半で明らかになるチセを裏切って死んだ母親もまたそういった存在なのであった。その世界の構造に苦しめられていたのである)。しかし、構造の変化によって救われたかに思えたチセであったのだけれど、今度はエリアスの純粋な心がゆえの緩やかでありながら、しかし、かなりしぶとい構造的暴力に囚われることになる。

「構造的暴力(structural violence)」とは、社会構造の中に組み込まれている 不平等な力関係、経済的搾取、貧困、格差、政治的抑圧、差別、植民地主義などをさす概念であると主張したのはノルウェー社会学者、ヨハン・ガルトゥングである。

主体–客体関係があきらかな暴力は、それが行為という形をとるので顕在的暴力である。ドラマを考えてみればよい。そこには暴力を行使する人がいるから、これは個人的暴力である。

(中略)

主語–動詞–目的語という基本構文と同じ構造をもっており、容易に言葉で理解し表現することができる。この場合、主語と目的語はいずれも人間である。このような関係を欠く暴力は構造的であり、それは構造のなかに組み込まれている。それゆえに、一人の夫が妻を殴った場合には、それはあきらかに個人的暴力の例である。しかし、百万人の夫が自分たちの妻を無知の状態に置いておくとすれば、それは構造的暴力となる。同様に、上層階級の平均寿命が下層階級のそれの二倍である社会では、ある人が他の人を殺す場合のように他人を直接攻撃する具体的行為主体を示すことはできないにしても、暴力が行使されていることになる。

ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』

エリアスは、“チセのため”としてパターナリスティックで過剰な保護を与え、意図せずとも構造的暴力の沼に引き摺り込んでいくのである。この魔法の世界は危険であるから、と自由な選択と自律的な思考をさせないことは構造的暴力である。それはチセが不幸と孤独に苦しんだ過去の世界と同様に不当なものであって、チセは本当の意味での“自律性”を獲得せねばならなくなるのである。

そのチセの“自律性”がエピソードとして顕在化するのが、22話『Necessity has no law.』であった。エリアスは、チセの左腕にかかった呪いを排除しようと、チセに黙ってステラの命を捧げようとする。またしても何も知らされない、無知であることを要請するエリアスの構造的な暴力に苦しむチセは、自らの太腿にナイフを突き刺し、エリアスの目眩しを解除するのであった。そして、エリアスもこれまでのパターナリスティックな方法論を改めることで2人は和解し、婚礼の儀を経て、対話の末にチセは自律を獲得することになる。構造的暴力からの解放とともに2人の第二章が幕開けるのであった…というのが1期である。

そして、「学校」という空間を舞台に幕開けた第2期のテーマは、その空間が示す通り「公共性」という他者との邂逅、そして協働を要請するものであった。公共的な空間においては、思いがけず相容れない他者と出会うことになるだけれど、そこでチセが出会うことになるのは、まさに過去の自分のように構造的暴力に苦しむフィロメラや、一族を虐殺されたルーシー、自らのアイデンティティに苦しむゾーイなどであった。そして、チセもまたカルタフィルスとドラゴンを身体に取り込み、まさしく自己との対話を余儀なくされている。この自己を通した内なる他者というものも2期のテーマとなり得るものだろう。そして、その他者との間での「交渉」というものもたびたび描かれるようになってきた、交通料として動物の肉を渡したり、自らの髪の毛を与えたりという贈与、交換の図式も世界との接続という意味で見事である。

ここからは余談なのだけど、私はキャラクターが成長していく過程で、髪が伸びていくのが好きなのです(『転スラ』リムルなど)。なんでかはわからないのだけれど、髪が伸びるということのキャラクターの成長感が良いのだ。チセの髪が伸びていくということで、成長を実感させながら、この2期において白眉であったのは、やはり髪をナイフで切り落とすシークエンスであった。ここからまた新たなる物語の始まりですよーと示すには十分であり、これからの物語の中で成長を描いてゆくことの示唆とチセの佇まいに魅了されてしまう。また、『進撃の巨人』が代表するようにWIT STUDIOによる西洋的な風景の美しさ、また音楽の重なりも素晴らしく、没入感を見事に演出している。10月からの2クール目楽しみです。