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宇野常寛『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』

f:id:nayo422:20221109194643j:image「水曜日が休みになると1年365日がすべて休日に隣接する」という提案によって、「労働」から「活動」へ移行した日々の豊かさを綴った書籍が『水曜日は働かない』である。文章を書き、都会の街中を走り、相棒のT氏とお喋りをするという何気ない日々が豊かな筆致で描かれている。冒頭の幾つかのエピソードを読んでいるうちに漠然としたイメージなのだけれど、村上春樹みたいだなあと思ってしまった。文章を書き、走っているからというなんとも雑な連想なのだけれど、過去作を辿ってみると、前作の『遅いインターネット』にて村上春樹のこんな言葉が引用されていた*1

〈僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。(中略)いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる〉

村上春樹『僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉(毎日新聞2008年5月12日掲載)

人というのは何かしらの枠組みの内側に入っていないと不安であり耐えられない。しかし、その枠組みを自律的に作り出しているのではなく、外部が作り出した囲い込みにあってしまっているのであれば、一時的な不安感からは離脱できるのだけれど、もはやその枠組み自体から抜け出すことは難しくなってしまう。インターネットの相互評価のゲームに囚われ、真の問題ではなく、問題についてのコミュニケーションに躍起になってしまうだろう、と。しかしながら、人間には枠組みが必要なのであって、もはやインフラと化した現在のネットワークから離脱するのが難しいことはほとんど自明である。であるから、その枠組みの中でいかに自律して、真の問題へと接触していくのか。それがゆっくり「読む」こととしっかり「書く」ことの往復を要請する〈「遅い」インターネット〉を目指すことであった。

10月に刊行された『砂漠と異人たち』では、『アラビアのロレンス』を参照し、身体と精神の分離の場所としての砂漠を〈外部〉として消費してしまったロレンスが、自由のために逃れたはずの〈外部〉に囚われてしまったことを指摘している。

人間はときに〈外部〉を必要とする。自由であるために。いや、自由であり得ると信じるために。

『砂漠と異人たち』173-174頁

「人間は〈外部〉を求めることで、むしろ閉じた場所から出られなくなるのだ」p176という受け入れ難い事実は現在の私たちが外部とのコミュニケーションを求めた結果、インターネットの情報空間に囚われてしまうことと重ね合わせられるだろう。では、ロレンスはどうすれば良かったのか。それはロンドンやオークスフォードの内部において砂漠(外部)を発見する必要があり、「ここではない、どこか」ではなく、「ここ」に砂漠を発見しなければならなかったのだ、とp182。インターネットの内部に「遅さ」を作り出すように、自らのホームタウンに「砂漠」を発見する。そうすることで初めて、私たちは自由への手がかりを掴むことができるのだ、と。

『水曜日は働かない』という宣言もまた枠組みの外側に出るものではなく、その枠組みの内部において砂漠を作り出そうとする活動であった。水曜日が1週間の1番「内側(真ん中)」であることが何よりの証左であるだろう。そこにおいて、気持ちよさそうに街中を走る宇野常寛の姿が村上春樹のようだと感じたのだけれど、『砂漠と異人たち』では、村上春樹宇野常寛の「走る」運動の捉え方の差異について言及されている。速さ(記録)に拘泥するのか、走ることの身体性に喜びを得るのかだ。この何かに依存するような態度が現在、小説家として巨大な暗礁に乗り上げてしまっていることを暗示しているのではないか、近作に感じる違和感に通じているのではないか、という指摘は興味深い。村上春樹にとって、社会課題から距離を取ろうとするデタッチメントからその反対のコミットメントに移ろうとするときの根拠が個人的な一対一の関係なのであって、共同体の精神的な囲い込みから逃れようとするためにむしろ外部の個人に依存してしまう。それは走ることにより個人の身体性による快楽を享受するはずが、その外部の速さ(記録)に拘泥するようになることで精神的な囲い込みにあうようなものだろう。「ある「精神的な囲い込み」を回避するために、自分ではないほかの誰かに依存することそのものに罠が潜んでいる。そのことを、村上春樹の小説の行き詰まりは示しているように思えるのだ」p223。村上春樹の歴代著作の場合、それは女性に対して役割として背負わされていたものであった。しかし、『女のいない男たち』で逆説的に示されているように、「男のいない男たち」というものを主題にしてみれば、精神的な囲い込みにあわない対等な他者との関係によって、コミットメントできるのではないかp246。

村上春樹は速さと目標を通して自己を強化していくことで、外部に出るのではなく、走ることに囚われている。ロレンスも砂漠のなかで自由な自己を確立するのではなく、そこに囚われてしまった。そのため、内部においてゲームから離脱する必要があったのだった。そして、それは空間的にではなく、時間的に外部に接続することが要請される、と。

僕たちが走る世界に外部があるとするなら、それは時間的な外部しかない。そこでは、空間的な外部は消失し、時間的な外部だけが存在する。そこでは、その土地に刻まれた自分の想像力を超えた時間の痕跡だけが、外部の存在を示唆する。それは閉じたネットワークの内部に存在する穴として機能する。歴史に「見られる」ことで、僕たちは時間的な外部に接し、自立の手がかりを掴むことができるのだ。

『砂漠と異人たち』299頁

どういうことか。それは、インターネットのタイムラインの速さに身を任せるのではなく、あくまでも自らの興味関心に従って、自らの手で物を作ること、文章を書くこと、読むこと、そうしてできたものでコミュニケーションを取ること。それは、自分の物語を発信するだけでなく、事物を通した他者の物語によって、変化、変身してしまうような、「人間の意思で完全にコントロールすることはできない」p311「庭」のような回路をも持つことであった。その煩わしさ、「遅さ」のなかで豊かさを享受すること。ゆっくりと街中を走り、運命などないその空間を発見すること。走っても走っても「ここじゃない、どこか」へは辿り着かない。しかし、それで良いのだ。だって、

「遅い」からこそ、僕たちはどこまでも走り続けることができる

『遅いインターネット』215頁

のだから。

*1:宇野常寛『遅いインターネット』53頁