昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

本で泳ごう。2022夏。

f:id:nayo18858:20221103131409j:image毎年やってきてしまう暑すぎる夏に疲弊している。そろそろ夏やめてほしい。しかも今年は6月から真夏日みたいな気温で街を熱してきたわけなのだから、まだ8月になったばかりであるけれど、もうヘトヘトである。そんなだから愉快な気持ちで街に繰り出していく気にもなれないし、海に行くのもプールに行くのも当然、面倒である。ましてや、オミクロン株の新たな派生型「BA・5」なるものによる「第7波」が猛威を奮っているし。はあ、もういいよ、暑いよ、夏いよ。外に出ないで、とにかくクーラーの効いたお部屋や図書館で涼むのがいい。扉を閉めて、本を読みながら物語のなかで泳ごう。涼しそうな映画のシーンとかでも良いのかもしれなのだけれど、もうちょっと能動的な関わり方をしたいような気もするのだ。本で泳ごう!夏を乗り切ろう!脚をバタバタさせて、腕を回転させてページをめくろう。ぐーっと潜ってみてもいい。ゴポゴポゴポ…ほら、だいぶ涼しくなってきた。浜辺で座って海をぼんやり眺めてみてもいい。どんな海の隣に座るのがいいだろうか。少し考えてみて、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ているからか、ふと、鎌倉…!と思いついてしまったのですが、なかなか良い気がする。そんな気がしませんか?

私が先生と知り合いになったのは鎌倉である

そう、夏目漱石『こころ』だ。「私」は鎌倉の海水浴場で先生と知り合いになって、それからだんだんと先生を尊敬するようになっていく。思慕するような肉感的なイメージを波の上に漂わせたふたりの描写が美しい。

私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已めて仰向けになったまま浪の上に寝た。私もその真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。

先生と「私」の交流に、同性愛的なイメージを想起するひともいるのだというけれど、たしかにそういったものを読み取れないでもないし、たしかに私もそう感じる部分はけっこうある。似たような本でいうと、パトリシア・ハイスミス太陽がいっぱい』もそうだろうし、その系譜からアラン・ホーリングハースト『スイミングプール・ライブラリー』、アンドレ・アシマン『君の名前で僕を呼んで』なども導き出せるだろう。

今、オリヴァーはシャツを着たまま膝まで水に浸かっている。彼が何をしているのかはわかっている。証拠を海の水で洗い流し、マファルダに訊かれたらうっかりシャツを濡らしたと言うつもりなんだ。
アンドレ・アシマン『君の名前で僕を呼んで』186頁

君の名前で僕を呼んで』は映画化もされて、誰もが知るところであるけれど*1、『スイミングプール・ライブラリー』はなかなか知られていないようにも思う。二段組でもあるし、読むのに躊躇してしまうのもあるだろうけれど、ザ・ガーディアンが「ゲイ・ライフを現代の場所と文脈に登場させた初めての傑作」と評するなどしているサマセット・モーム賞受賞作である本作を読んでおく価値は大いにあるでしょう。この夏にこれを一冊読破してやる!というのも良いかもしれない。主人公ウィルと、ふたりのボーイフレンドであるアーサーとフィル、そして、83歳、老貴族のチャールズ・ナントウィッチ男爵との甘美で官能的な物語だ。

ほとんど毎日ぼくは泳ぎに行った。ときどきはジムのマットでエクササイズした後やウェイツ・ルームで短めのメニューを終えた後なんかにも。泳ぐことはふつうの時間潰しとは違っていた。頭の中が真っ白になり、かつ満ち足りた気分になれる。ぼくの泳ぎは速かった。クロールとブレストとを交互にやり、十回ごとにバタフライも交える。それを五十本繰り返す。コピー・マシーンみたいに自動的にその数がわかった。なのに同時に、ぼくの心はどこか別の場所にさまよっているのだ。なにかを考えながら、三十分が経過するのを––––肉体が一回に耐え得る純粋運動量を––––かろうじて計っていた。きょうの夕方はアーサーのことを何度も考えた。冷たく薄暗い水の中をタンブルーターンを繰り返して往復するたびに、じっさいに交わした言葉と交わさなかった言葉とがぼくの心の中を走り抜けた。出会ってから一週間が過ぎていた。ベッドで過ごした一週間、あるいは裸のままベッドルームからバスルーム、キッチンへと追いかけた一週間。変な時間に眠り、酔っぱらい、ヴィデオで映画を見た一週間。ぼくは彼に夢中だった。
アラン・ホーリングハースト『スイミングプール・ライブラリー』20頁

ページをめくっていくと物語後半でチャールズは逮捕されてしまうシーンが現れる。本作はそういう時代の困難さと卑劣さをも描いている小説だ。インターネットで検索をかけるとなかなか高騰しているようなのだけれど、そんなときは図書館に走れ!図書館は涼しい。『こころ』に戻りましょう。海水浴を楽しみ、先生とその奥さんとも豊かな日々を重ね交流しながら、しかし、寄せては返す先生の背後にある物寂しさをも「私」は次第に感じ取っていくのだった。その物寂しさは「先生の遺書」となって物語後半に届けられる。そこに記述されているのは夏目漱石らしい三角関係の物語であって*2、先生、K、お嬢さんの儚げで非対称的な関係にじっくりと夏の時間を使うというのはなかなか良いのではないかと思います。また、本作は明治天皇崩御から死を選び取ってしまう男の物語でもあるし、いまのこの時代の終わりをも感じさせる空気のなかで、そんな他者のこころを感じ取るのもまた良いでしょう。深く共鳴してしまいそうであれば、そっと閉じるのも良いかもしれない。

三角関係を用いた作家というと、わたしは佐藤泰志を思い浮かべてしまうのでして、映画化された『きみの鳥はうたえる』や『草の響き』とかも良いと思うのだけれど、今回は『黄金の服』をおすすめしておきたい。プールでのシーンがたくさんあるのだ。

泳いで、酔っ払って、泳いで、酔っ払って、さて、どうするかな
佐藤泰志『黄金の服』178頁

タイトルの『黄金の服』はスペインの詩人ガルシア・ロルカの詩の一節「僕らは共に黄金の服を着た」からきており、「若い人間が、ひとつの希望や目的を共有できるか」(p143)ということを示しているものである。梲が上がらない若者がプール、ジャズ、ビール、ジン、ラム、恋愛、セックス、諍い、暴力で、圧倒的に煌めきながらも切実な日々を埋めていく。どうにもならないときに佐藤泰志の物語では身体を動かして精神を治癒していこうとするのがいい。『オーバー・フェンス』であれば野球だし、『草の響き』であれば走ることだし、『黄金の服』では泳ぐことだし、誰かを殴ることだ。冒頭で言っていたことに反するのかもしれないのだけれども、クーラーの効いた室内で本なんか読んでたら病むので、今すぐにでも外に飛び出し、走り出しなさい!と言ってもよいかもしらん。自分の“こころ”と相談してくださいませ。そして、気が向いたら走ってください。昼中は危険なので、夜がいい。「夏は夜」だと枕草子も言っていた*3枕草子って夏にランニングするには夜がいい」と詠んだのですよね?

佐藤泰志と同じ1949年に生まれた作家が村上春樹である。どうしてこうも彼らの運命が違ってしまったのか、と考えるとやっぱり村上春樹はランニングをしていて、佐藤泰志はそうでなかったというのがあるような気もする(しかしそれによる良さも生まれているわけだし、だからこそ彼なのだけれど)。村上春樹の小説からは『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている『プールサイド』を取り上げみよう。これまでの人生を余裕たっぷりに過ごしてきた男が、これからどうしようか、と人生の折り返しをプールのターンに例えて考えている。35歳というものを折り返し地点に決めてしまって、人生のターンをする。歯を健康に維持し、肉体を鍛え、浮気し、泳ぐ。でも、泳いだ先がほんとうはもっと長いのかもしれない。それでも折り返し地点を決めないことには、この先を泳ぐことができないのだろう。

ビリー・ジョエルは今度はヴェトナム戦争についての唄を歌っている。妻はまだアイロンをかけつづけている。何ひとつとして申しぶんはない。しかし気がついた時、彼は泣いていた。両方の目から熱い涙が次から次へとこぼれ落ちていた。涙は彼の頬をつたって下に落ち、ソファーのクッションにしみを作った。どうして自分が泣いているのか、彼には理解できなかった。泣く理由なんて何ひとつないはずだった。あるいはそれはビリー・ジョエルの唄のせいかもしれなかったし、アイロンの匂いのせいかもしれなかった。
村上春樹『プールサイド』79頁

プールで出会った男は「誰かに嘘をつくのは本当は好きじゃないんだ。その嘘がたとえ誰一人傷つけないとわかっていても、嘘はつきたくない。そんなふうに誰かをだましたり利用したりしながら残りの人生を生きていきたくはないんだ」と話す。わからない、ぼんやりした未来へ息継ぎをしながら泳ぎ続けなければならない。人生というものはあまりに酷だ。

村上春樹は翻訳家でもある。まずもって、彼の翻訳によるジョン・チーヴァー『泳ぐ人』がこのエントリーにはぴったりだろうか。本作が発表された前年には、ケネディー大統領の暗殺事件があったのだという。「アメリカにとってのひとつの幸福な、イノセントな時代が終わってしまったという実感が、あのような日々はもう戻ってこないのだという哀悼の意識が、この作品にも重く深く沈殿しているように感じられる」と村上春樹は言及している。「幸福でイノセント」!もう近い未来では知ることのできない時代であるのだろう。『泳ぐ人』は、ある男が他人の家のプールを泳いで伝いながら、南に八マイル離れた自分の家へ帰るという物語である。はじめのうちは各々の家であたたかく招かれたりするのだけど、幸福でイノセントな時代が終わったことを反映するかのように、雨が降ってくることを境に、嵐が通り過ぎて、さっきまで泳いでいたはずのプールは緑色に濁り、公共プールを泳げば監視員に注意されてしまう。秋を経て、やがて冬がやってくると、「幸福でイノセントな時代」を忘れられずに泳ぎ続けた男は、空っぽの自宅を窓外から覗き込むことになるのだった…。泳ぐことの無邪気さが儚く散っていく様子が物寂しい。それでも泳ぐことの幸福さはあるのだという話だという信念が実に人間賛歌である*4村上春樹だと彼の翻訳ライブラリー『バースデイ・ストーリーズ』という短編集に収録されているクレア・ギーガン『波打ち際の近くで』もおすすめしておきたい。

彼が望んだのは、今夜の記憶を洗い流すことだけだった。彼はずいぶん長い時間、あがらっている。 息継ぎのときだけ水面に頭を出せば楽だろうと思って水中に潜ってみる。岸辺には明かりのついたコンドミニアムが見える。出し抜けに祖母のことが頭に浮かぶ。 はるばる遠くからやってきたというのに、祖母はたった一時間しか海辺にいられなかったのだ。故郷の川では泳ぎの名手であったにもかかわらず、水の中に入りもしなかった。どうしてと彼が尋ねると、祖母は言った。どれくらい深いかわからなかったから、と。どこから深みが始まるかわからなかったし、どこでその深みが終わるかもわからなかったから。青年は水面を漂っている。それから明かりのついたコンドミニアムに向かってゆっくり泳いでいく。[・・・]はあはあ息をついて、あたりを見回して服を探す。でも服は波に運び去られてしまっている。海から這い上がってきた最初の生物のことを彼は想像する。陸上で生命を維持していこうとするには、ずいぶん勇気があったことだろう。彼は大学街の若い男たちのことを考える。義理の父親は彼を「ハーヴァード」と呼ぶ。まるでそれが彼の名前であるみたいに。彼の母親の指にはまがいものの星のようにダイヤモンドが輝いている。あたりまえの人生、それが彼の願ったことだった。
クレア・ギーガン『波打ち際の近くで』256-257頁 村上春樹翻訳ライブラリー

19歳の誕生日を迎えるひとりの青年が、両親の離婚騒ぎのことや、その時代に正しいとされた規範的な家族観のなかで過ごした祖母との会話を思い起こしながら、これからの将来どう泳いでいくのかを考える暇もなく腕を回すシーンがいい。旅立ちとして海から這い上がり、今まで着ていたものを捨て去って(実際には服は流されてしまっただけなのだけれど)裸で陸地に戻って来るのだ。マヌケっちゃマヌケなのだけど、なんだかカッコいい、と思えてしまう。あたりまえの人生…。

邦訳作品だと、岸本佐知子が翻訳したミランダ・ジュライいちばんここに似合う人』に収録されている『水泳チーム』という短編もめちゃ良い話で、とっても好きな物語。ベルヴェディアという田舎町でひょんなことから老人3人に泳ぎを教えることになった女性が、そのときのことを回想するお話。水に顔をつけるところから始まる水泳レッスンがかわいい。そして、誰もがいつかいなくなってしまうという折り返しを意識したような悲しみは村上春樹『プールサイド』にもつながるだろうか。

わたしがいま誰のところに一番もどりたいかわかる?エリザベスとケルダとジャックジャックよ。もうみんなとっくに死んでしまっただろう。まちがいなく。なんという途方もない悲しみ。わたしはきっと、人類史上最高に悲しい水泳コーチだ。
ミランダ・ジュライ『水泳チーム』30-31頁

たったの8頁ほどの物語なのだけれど、この水泳コーチをした話を別れた彼氏を思い出しながらする構造になっているので、彼氏との関係などの奥行きがあってじんわりと胸に浸透してくる。なんとなくだけれど、本作の主人公である女性やおばあちゃんたちを『ポニョ』に出てくるリサ(山口智子)、老人ホームにいたおばあちゃんたちで想像しながら読んでしまうのだ。読んでみてください、しっくりくるんじゃないかなあと思う。泳ぐことにつきまとう教える、教わるという関係が瑞々しい。何かができるようになる、それは何歳だって嬉しいことだろう。今年、映画化された高橋秀実『はい、泳げません』も教える、教わることよる共鳴を描いていましたね。わたしはどう泳げるようになったのかとか、もうあんまり覚えていない*5小学生のときに、無理やり泳げるようになってしまった感じがするので、きれいなフォームではないだろうな、と思う。小学校とかでちゃんと泳ぎを教えてもらったという記憶はないような気がする。

よくさぁ、夏、プールの後ってくたびれて授業中熟睡しちゃうことがあるじゃない。ほら、あの感じ。体がまだ半分泳いでるようなね、心地良くて、陽がたくさん当たって。それで先生の声がとおーく、子守歌になっちゃって、ぐうぐう寝ちゃうのよね。それで、ぱっと目が覚めると、五分くらいしか寝てないのに、なぜかしらすごくいっぱい寝たような不思議な気分にならなかった?」「なった、なった。やっぱり熟睡だからだろうな。」「まわりはなにも、変わってないの。先生は相変わらず黒板になにか書いてしゃべってるし、みんなも変化がなくって、体がほんのりあったかくって、窓の外は晴れてて、なにもさっきと変わってないのに、私だけ急にそこに降ってわいちゃったみたいな変な感じで、なんだかとても誰かとなにかしゃべりたいような不安な気がして、ねえって振り向くと智明くん、必ず!寝てるの。おかしかったあ。ぼうぜんと智明くんの眠る背中を見て、笑いながらまた前向いて、……懐かしいなあ。
吉本ばななサンクチュアリ

プールの後に寝たりしていたのだろうか。もうなんにも思い出せないけれど、でも、濡れた髪の毛で外を歩くのとかは思い出せる。気持ちいいですよね。水のヴェールを纏ったように涼しい!f:id:nayo422:20230223115205j:imageふと、思い出してしまったのだけれど、ベボベ小出裕介の小学生時代、泳ぎの上手な透き通るような女の子がスーッと水中を潜水していくのが綺麗だったなあ、と話していたのを思い出してしまったので、突如として記してしまった。すみません。その女の子はすぐに転校してしまったらしい。さあ、続いての読書へ!泳ぎが得意ではないのに、夏休みの午前中にプール教室に行かなければならないことに憂鬱な気持ちになっている、まさはるという名前の小学生が主人公の物語が江國香織『亮太』という短編だ*6今江祥智 編『それはまだヒミツ 少年少女の物語』というアンソロジーに収録されている。四年生になってもただひとり六級のまさはるは憂鬱な気持ちでプールに入っていた。そんなある日、「八年前に死んだんだよ、おぼれて」と語る亮太と出会い、まさはるは亮太に、亮太はまさはるに、といった感じに少しずつ身体が入れ替わっていく!という奇妙な体験をしていく。そうするとまさはるは25メートルを泳げるようになったり、好き嫌いなくたくさん食べるようにもなったりしていくという不思議なお話だ。なんだ、じゃあもう身体は亮太にあげてしまおう、そうすれば、お母さんも先生もみんな喜ぶ、いいじゃないか、とまさはるは思うのだけれど、でも、こんなに変わってしまってお母さんはすこし心配している、と言うのだ。心配⁉︎とまさはるは不思議がる。そんなときに、亮太が

抱擁してくれ。どうせもう二度と会わないんだ。僕を赦し、愛をこめて
江國香織『亮太』108頁

と言ってくるのである。ここがとても素晴らしいシーンだな、と思うわけだ。入れ替わりがだんだんと進行していって、亮太を構成するものがほとんどまさはるになったときに、その亮太をまさはるが抱きしめるのだ。つまり、まさはるが自分の要素で占められた亮太(ほとんどまさはるなのだ)を抱きしめる。自分自身を赦し、愛するということである。泳げないし、嫌いなものが多くてあんまり食べない痩せぎすの自分を抱きしめる。そして、まさはるは亮太(まさはる)を抱擁することで、自分を取り戻し、お母さんの迎えを待つというラストが最高だ。おすすめ!江國香織の本だと、直接的には泳ぐとかは関係ないかもしれないけれど、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』もありますね。

It's not safe or suitable to swim.
ふいに、いつかアメリカの田舎町を旅行していて見た、川べりの看板を思い出した。遊泳禁止の看板だろうが、正確には、それは禁止ではない。泳ぐのに、安全でも適切でもありません。
私たちみんなの人生に、立てておいてほしい看板ではないか。
江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』26頁

この小説ってなんかの問題集に使われていた気がするのだけど、どこのなんだったかあんまり思い出せない。夏ですねえ。勉強とかするんですかねー夏期講習とかありましたね。

ここまで小説ばっかりになってしまったので、ここいらでロジャー・ディーキン『イギリスを泳ぎまくる』というノンフィクション作品を読んでみよう。“イギリスを泳ぎまくる”!いかにもノンフィクションっぽいタイトルでいい。ロジャー・ディーキンは「地球の友」創設メンバーのひとりで、コモングラウンドの共同設立者、作家、映画作者、環境保護主義者として国際的に知られている人物であるらしい。ウォーキング、水泳、サイクリングなどのアウトドア活動を促進することをライフワークとして、サフォークの堀のある農家で38年間暮らし、1999年にこの『WATERLOG(イギリスを泳ぎまくる)』を発表したのだという。今やネイチャー・ライティングの名著のひとつに数えられるている。彼は自然の水の中で泳ぐことは通過儀礼だといい、海岸、川岸、プールの縁、水面を通じた越境だ!と語る。一種のメタモルフォーゼであり、水中という自然の中に組み込まれることになるのだ、と。周囲の動物や自然と同等になり、陸地に囚われたままの人間を、新たな視点で見つめ直すことにつながるのだ。

自然の水には古来、癒やしの力が潜む。水の自己再生力はなぜか泳ぐ者にも伝わり、水に飛び込む前は暗い顔でふさぎ込んでいた僕が、水から上がれば上機嫌で口笛を吹く。重力から逃れ、裸という絶対的な解放を手に入れることで、自由と野性が目を覚まし、自然との一体感が増してゆく。
ロジャー・ディーキン『イギリスを泳ぎまくる』10頁

ハンプシャーケンブリッジウェールズ、モールヴァン丘陵、ヨークシャー、アーガイル、ケント、サマセット、ロンドンなどを旅しながら、泳ぎまくる。その楽しさを自らの体験でもって綴っていくのだけれど、未知の世界と接する泳ぐことの崇高さだけでなく、水というものがあまりに政治的なものを孕んでいる側面もまた感じざるを得なくなることなんかも本書全体を通して書かれている。資本主義的な私的な囲い込み、汚染された水、経済格差、コミュニティ…水はどこからやってきて、どこへいくのか。流すひと、流されるひと。海水や地表から水が蒸発し、雲となり、やがてそれは雨や雪を降らす。水道や河川を流れてまた海にたどり着く。こんな水の循環のように、記憶もまた巡り巡って、いつかのあの日へ帰れるかもしれない、しかしその循環によってたどり着いたそこは幻想なのか、はたまたその幻想で生きることができる現実のか、という小説がジョン・ヴァンヴィル『海に帰る日』である*7。記憶と時間というのはいまの流行りでもあるので今読むと面白いと感じるひとも多いかもしれない。幼少期の記憶と目の前の景色が交錯する時間軸、脳内で呼び起こされる空想が次々に私たちの心を満たしていくという岸本佐知子のエッセイ『死ぬまでに行きたい海』も紹介しておこう。寄り道につぐ寄り道こそが読書の醍醐味ではないだろうか、という文章の豊かさを実感できる。「時の循環」をテーマにした神話的な円環の物語を描いたものでいうとヴァージニア・ウルフ『波』もある。汀から寄せられる他者の声に耳をすませるのも夏の過ごし方としてありだ。

できるものならそこで諦めたかった。ひとりで港に引き返したかった。海が鳴っていた。来るな、と海に言ってほしかった。岩場を撫でる波音がいくら穏やかでも、さなえの心が岩場のようにごつごつと割れているために、撫でてくれる手を引き裂いた。傷つくのは海のほうだった。傷つけばいい。しかし、海は傷つく気配などなく、さなえが望むことも言ってくれない。
小野正嗣『九年前の祈り』79-80頁

また、小野正嗣『九年前の祈り』という、祈りが過去と未来をつなぐ感動的な物語を編んだ傑作小説もある。海辺の街に母親として帰ってきた女性と初めてその土地に来る子ども。時は過去に流れ去ってしまうものではない。祈りとなって誰かの心で鳴り響くのであるという、力強く、優しいメッセージが放たれる本書は是非とも読まれたい。これほんとに好きな小説だ。おすすめである。

ここまでいろいろと小説やエッセイを羅列してきたのだけれど、それでも「読まんしな」というひとがあれば、写真集で涼むのも良いかもしれない。目の前に広げてみよう。『The Swimming Pool in Photography』とか『Poolside With Slim Aarons』とか『写真集 POOL 世界のプールを巡る旅』などありますね。しかし高いし、図書館にはほとんど置いていないし、手に入れるのは苦労するので、やっぱりじっくり本を読んでみるのが良さそうである。そんな気がする。まず写真集でページをめくる感覚を馴染ませてから、文章に取りかかるのもありだろう。まだまだもう少しだけ暑すぎる夏はつづきそうですが、このエントリーがあなたと素晴らしい本との出会いのきっかけになって、少しでも涼しく落ち着いて日々を過ごしていけるようになれば、これ幸いである。ぜひとも、身体的な感覚を研ぎ澄まし、能動的な読書体験の旅へ。

夏目漱石『こころ』
パトリシア・ハイスミス太陽がいっぱい
・アラン・ホーリングハースト『スイミングプール・ライブラリー』
アンドレ・アシマン『君の名前で僕を呼んで
佐藤泰志『黄金の服』
村上春樹『プールサイド』
・ジョン・チーヴァー『泳ぐ人』
・クレア・ギーガン『波打ち際の近くで』
ミランダ・ジュライ『水泳チーム』
吉本ばななサンクチュアリ
江國香織『亮太』『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
・ロジャー・ディーキン『イギリスを泳ぎまくる』
・ジョン・ヴァンヴィル『海に帰る日』
岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』
ヴァージニア・ウルフ『波』
小野正嗣『九年前の祈り』

*1:君の名前で僕を呼んで』は映画のほうが良さそうな気がする

*2:わたしは夏目漱石の三角関係だと『それから』がいちばん好き。というかこの世の小説のなかで『それから』がいちばんおもしろいんだと思う。『門』までになると『アウトレイジ 最終章』的な感じで年取りすぎ感あるし

*3:能町みね子『お家賃ですけど』に夏の夜に感動し、枕草子に嫉妬するというエピソードがあります

*4:『イギリスを泳ぎまくる』のロジャー・ディーキンは『泳ぐ人』にある「(水に入ることは)楽しみというよりも野性を取り戻すことだった」というところに共鳴するらしい

*5:もしかしたら泳げないなんてこともあるのかもしれない。もうずっとプールに行っていない

*6:本作のいちばん好きなところは「先生と不思議なほど仲よくなってしまう生徒というのがいて、先生もそういう生徒のことはあだ名で読んだりするものだが、まさはるは決して、そういうたぐいの子供ではなかった。だから担任の先生だって、まさはるのことは高橋くん、と呼ぶのだ」というところ。あだ名禁止とかそういうのはどうでも良いのだけれど、先生がこの優劣つけるのはなんでよ、と思いますよね

*7:児玉清さんが寄せたコメントがいい。「海中から沸き起こる気泡に包まれるような、不思議な感覚を呼び覚ます物語だ。主人公の自らへの問いかけは、時に大きなうねりのように読者の心を激しく揺さぶる。彼は言う。「ひょっとすると、人生はそこから立ち去るための長い準備期間にすぎないのかもしれない」。過去とはいったい何なのか。それは、結局のところ、かつて現在だったものの積み重ねであり、それ以上のものではないのだろう。だが、にもかかわらず、と書くバンヴィルの小説は、いつか必ず消えていくという宿痾の道を歩む人間の心に鳴り響く、永遠の箴言である。