昨日の今日

昨日の今日

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

2022 FIFAワールドカップ カタール大会 日本代表に寄せて

f:id:nayo422:20221209005843j:image涙する選手たちの顔をテレビで観ながら、ベスト8への旅が終わったことを実感した真夜中を思い出す。ベスト16という成績でもって日本代表が大会を去った。閉幕してからまだ3週間ほどしか経っていないのに、W杯のあった日々が遠い昔のことのように思えてならない。優勝はリオネル・メッシが悲願のトロフィーを掲げたアルゼンチン。彼のような生ける伝説が35歳になり、最後のW杯と宣言してようやく掴み取ることができたのだから、日本代表がW杯で何かを成し遂げることが難しいのは言うまでもない。

しかし、この大会で日本代表がベスト16の壁を越えられるだけの力があると感じ取れたのもまた事実なのであり、FIFAが発表した最終順位で日本は9位という素晴らしい成績であった。そう、もう本当に僅かなのだけれど、この差が確実に存在することもまた眼前に突きつけられてしまったのだった。このエントリーでは、今大会でドイツとスペインを撃破するなど、劇的な展開で世界を魅了した森保JAPANのカタールでの戦いについて考えてみたい。9位まできた。しかし、ベスト8の目標はまだ達成されていないのである。

〈はじめに〉

「競争」「闘争」という河内一馬『競争闘争理論』にて扱われている言葉を軸にして、試合中における「競争的思考態度」「闘争的思考態度」の認知差が引き起こす現象について、またカタールW杯における日本代表について考えていきたい。河内一馬『競争闘争理論』においては、サッカーは「競争」ではなく「闘争」に分類されるスポーツであるのに、「競争」と認識してしまっていることで日本は世界と渡り合えていないのだと指摘されているのだけど、本大会においては、ドイツやスペインもまた「競争」と誤認して、競争的思考態度に陥ってしまっている、もしくは、「闘争」であるサッカーのコンセプトをチーム内で共有できずに「競争」によって対処せざるを得なくなってしまっていたのではないかと仮定し、検証していく。そして、日本もまた今大会で「闘争」できていたわけではないのであるけれど、しかし、競争的思考態度によって勝利を収めてしまったのである。このねじれが、森保監督の評価を難しくしまっているのだろう。

このエントリーでは、何か明確な結論を述べることができていないし、むしろ明確なことを述べることは複雑な要因で構成されているサッカーというスポーツにおいては不可能である。ぜひともこのエントリーから各々がサッカーについての思考を巡らせてほしい、と思っています。

〈『競争』で勝ち、『闘争』で負けた〉

今回のW杯、日本代表はドイツとスペインに勝ち、コスタリカクロアチアに負けた。このことについて、まずもって結論めいたものを述べてしまえば、日本は「競争」(「競争的思考態度」のまま)で勝ち、「闘争」で負けたのだと言うことができるように思う。この「競争」と「闘争」という言葉は河内一馬『競争闘争理論』にて扱われている言葉であり、その定義として、「競争」とは「自分の技術を最大限発揮するもので、相手に妨害を加えるなどすることを許されていないもの」であり、「闘争」とは、「相手に何らかの妨害を加えたりして影響を与えるもの」とされている。

要するに、「競争」とは「環境が整った状況において技術を最大限に発揮できること」であり、「闘争」とは「相手に影響を与え能力を発揮させないことで自分たちに有利な状況を作り出すこと」である。そして、それに適した思考態度がそれぞれ「競争的思考態度」「闘争的思考態度」である。河内一馬『競争闘争理論』では、競争的な競技で日本は世界に勝利を収めることができているが、闘争的な競技において、そのなかでもとくに団体闘争においては、日本は世界との戦いにおいて勝利を収めることができていないと指摘している。そして、その理由は、サッカーというスポーツは相手に影響を与えることで勝利を手繰り寄せるものであるはずなのに、なぜか自らの技術を最大限に発揮しあう競争的なスポーツだと認識してしまっているからではないか、と説明しているのだ(これらのことはぜひ本文を参照されたい)。

しかし、ここで予期される疑問として、森保JAPANは前からのプレスをかけることによって相手に影響を与えることができたではないか、そして、そのことによって得点を決めることができたのではないか、ということである。そう、確かに森保JAPANはドイツ戦とスペイン戦において、およそ10分ほどの間、「闘争」的な姿勢によって相手に影響を与えることができたのであり、むしろこの短い時間に込めたからこそ、試合の緩急ができ、相手は動揺したという面もあると言うことができるだろう。そして、3バックにし前がかりになったあと、そのまま5バックで引くことによって、陣形をスムーズに移行することも可能にしたのは森保監督の見事な采配だと言うこともできる。しかしながら、これがどこまでデザインされていたものであるのか、ということもまた疑問符がつけられなければならない。

なぜなら、「闘争」することがデザインされていたのであれば、コスタリカ戦やスペイン戦においても、その態度のもとにコンセプトを形づくり、三笘や伊東をうまく使うことで、勝利することができたのではないかと考えるからである。コンセプトの不明確さ、監督と選手間の認知の差、選手同士の認知の差が存在するままに試合に臨んでしまったのではないか。そして、それはドイツ戦やスペイン戦においても同様であることも想定されると、「闘争」を行えていたのではなく、むしろ「競争」の思考状況に相手を引き摺り込むことによって、2つの強豪国を倒せたのではないかということも考えられる。

〈「競争」的な思考態度に引き摺り込む〉

ここで、ドイツ戦、スペイン戦における2つのプレーを取り上げたい。まずドイツ戦のリュディガーの浅野を揶揄するような走り方である。ここに彼の競争的な(ある意味で闘争的とも言えるのだけれど)思考態度に陥っているものがあるように考えられる。要するに、技術を発揮できるだけの状況、余裕を感じていたのではないかということである。そして、サッカーという闘争の場におけるその思考状態は仲間への良くない伝播を招くわけであって、ズーレのミスやシュロッターベックの浅野への対応に現れていたのではないか。ズーレがずるずるとラインを下げてしまって、浅野が得点したシーンでは、リュディガーが仲間への声かけを徹底していれば対処できていたかもしれなかったわけである。ここで仲間へも相手へも起こる影響を捨象して、個人の競争的な思考に陥ってしまっていたのではないか、ということが考えられる。競争的な思考態度にあって、闘うことができなくなってしまったことが試合の明暗を分けたということだ。そして、選手たちの技術的な優勢によって、この試合において森保監督の素晴らしい采配によって日本は勝利を呼び寄せたのであった(サポーターとしては日本がドイツとスペインに個の力で負けていないという発見が最も衝撃的なことであっただろう。森保監督はそのことを認識して、「競争」的な試合に引き摺り込んだのではないか?と仮定することもできるのだが、大会後インタビューにて森保監督は「個の力が足りなかった」と言及していたことから、それはないだろうと考えられる)。

次にスペイン戦では、シモンの繋ぐ意識が強固になりすぎたいくつものシーンである。これは、スペインが掲げるコンセプトによるものでもあるのだけれど、しかし、各人によって、ロングボールを選択することは許容されているはずだし、例外は原則の中にも含まれ設計されているはずである。それなのにボールを繋ぐことを頑なに遂行し続けたのは、やはり自信があったのだろうし、ある程度のプレッシャーがあったとしても、自分の技術を最大限発揮する場が提供されていることを感じていたのだろう。この認知のズレが、日本の瞬間的な「闘争」的プレスによって崩され、堂安のスーパーな技術によってゴールを破られた。これも、前半にあまり前がかりにいくことができていなかった日本の闘い方に起因するのでもあるだろう。

「闘争」というのはアクションを起こすものだけでなく、アクションを起こさないことによって相手に影響を与えることでも現象化することは可能である。しかし、それが偶然に起こっているのか、しっかりと「闘争的思考態度」をチーム全体として共有し「闘争」できているのかによって、その評価は変わってくる。日本がベスト8を目指すチームであるならば、その再現性は必要不可欠である。大会後のレジェンドスタジアムにて、中村憲剛と田中碧の対談が公開されており、そこで、田中碧はドイツ戦で「(バックが)来なかったので、(前に)行きたいけど行けなかった(行かない状況になってしまった)」と言及している。

【緊急対談】田中 碧 × 中村 憲剛 FIFA ワールドカップ カタール 2022の激闘を振り返る! - YouTube

この認知差がある状況で日本がプランを遂行できず、前半のうちにドイツが得点を重ねていれば、日本に勝機はなくなってしまっていただろう。試合後インタビューでの三笘の冷静なコメントが印象的であった(あまりにも冷静な三笘)。

ー逆転したこの力、どう感じますか?

三笘「まあ、ほとんど逆転したことないですけど、ここで出るっていうのは運もあると思いますし、チームとして我慢強く闘って、オフサイドもありましたし、まあ…ついてたんじゃないかなと思います」

「運」も実力の内だとは思うし、それを引き寄せるためのプランを後半に遂行できたことは誰もが認めることだろう。しかし、やはりドイツ戦での勝利はあくまでも「運」「ついてた」こともまた紛れもない事実であるように思える。「闘争」をどこまでコンセプトとして落とし込み、デザインできていたのかを考える必要がある。それを前半のうちに相手に影響を与えることを意識し、「闘争的態度」として監督スタッフ、選手、そして、協会もそれを共有する必要があるだろう。

〈明確なコンセプトによる制約〉

しかし、日本に明確なコンセプトは必要だったのか?ドイツとスペインに勝ったではないか?とくにスペインにおいては、むしろコンセプトによって雁字搦めになり、日本に敗退したのではないか?などという幾つもの疑問が上がるはずだ。

私の考えとしては、コンセプトが確立されており雁字搦めになったのではなく、ドイツ、スペインともに、日本と同様、コンセプトをチーム全体として落とし込めなかったのだと思う。それは、今大会がシーズン途中の冬開催ということで、大会前の準備期間が1週間ほどしか無かったからであるだろう。そのため、やるサッカーが変わったことに対する違和感、コンディションの不一致が引き起こってしまった。対して、日本は何も明確なコンセプトがなかった(森保監督が最低限のことは用意しあとは選手に任せた)からこそ、うまく適応できたのではないか。そして、選手各人の技術による競争的な試合になったのではないかと考えられる(W杯においてはそれが最適であるのかもしれない…というのはアルゼンチンvsフランスの決勝を見て思ってしまったことでもある)。

権田のビッグセーブ、浅野の逆転ゴール、伊東のチャレンジングなプレス、堂安のパワーシュート、三笘の1ミリ、冨安の右サイドシャットアウト…などなど挙げていけばきりがないのだけれど、技術的なやり合いで勝利を収めたのがドイツ戦とスペイン戦なのである。一方で、「闘争」によって、技術的に勝てない状況を作り出されると負けてしまうのが、コスタリカ戦とクロアチア戦であった。しかし、コスタリカ戦においては、しっかりとコンセプトを仕込み、技術を発揮するだけで良い状況を作り出せれば、容易に勝利することができただろう。コスタリカが「闘争」できていたのか、ということについては議論の余地があるのだけれど、スペイン戦での反省を活かして、しっかりと引くということに決め、フィジカルの勝負に持ち込んだという点においては、コスタリカなりの「闘争的な思考態度」によるコンセプトがあったように思う。またそれがチームとして共有されていただろう。

〈攻撃と守備のデザイン〉

森保一『プロサッカー監督の仕事』(カンゼン)という書籍に、こんな記述がある。

よくサッカーには4つの局面があると言われます。

①攻撃、②攻撃から守備、③守備、④守備から攻撃

この4つのサイクルで、試合が進んでいくという考え方が一般的です。しかし、僕はこれを独自の解釈で3つだと捉えるようにしています。

①こちらがボールを持っている場面、②相手がボールを握っている場面、③どちらもボールを握っていない場面

この3つです。4つの場合は「切り替え」が2つあります。ルーズボールになった際、選手が攻撃時にボールを失って守備に切り替わるのか、それとも守備時にルーズボールを拾って攻撃に切り替わるのか。僕はそれらを合わせて「どちらもボールを握っていないとき」と考えています。そして、3つの局面それぞれで必要な基本の動きを、選手たちに練習で落とし込むようにしています。

森保一『プロサッカー監督の仕事』66-67頁

ボールを中心とし、一般的な4局面の理解から3局面に理解を移すことで、選手の思考を簡素化し、よりシンプルに必要な動きに落とし込めるようにしているのだという。しかし、ボールというのはあくまでも一部分にしかすぎず、より細分化していく必要があるだろうと指摘するのが『競争闘争理論』である(森保監督の書籍は2014年刊行であるため、今はもっと細かく突き詰められているかもしれないが)。

「攻撃と守備」について語る際、『競争闘争理論』にて大切な3つの要素として挙げられているのは、「姿勢」「権利」「意思」であり、「権利」が「ボール」であると定義されている。

「権利」とはすなわちボールである。ボールを持っているチームは「攻撃の“権利”」を持ち、ボールを持っていないチームは「守備の“権利”」を持つ。ゲームの目的を達成するためには得点をとる必要があり、そのためには「ボール」が必要である。つまり、先ほど「サッカーにおいては、(攻撃と守備に関して)便宜上の整理に留まっている」と述べたが、私たちがサッカーの「攻撃と守備」を、ボールを持っている時といない時で整理する時、この「権利」“のみ”に焦点を当てているのである。

同じ「団体闘争」であっても、例えばバスケットボールやハンドボールの場合、手でボールを扱うため、あるいはコートのサイズなどの特性上、“権利を持っているチームがその権利に従う”ことがほとんどのため「攻撃と守備」は明確である。アメリカンフットボールのように「攻撃のプレイヤー」と「守備のプレイヤー」とで役割が明確に分けられている(分けることができる)「団体闘争」ゲームもあり、この「攻撃と守備の不明確さ」は、前述した通り、とりわけサッカー特有のものとして存在する問題である。このことは「団体闘争」の中でもサッカーが特殊なゲームであることを示している。

サッカーにおいては「攻撃と守備」を「権利」=ボール“のみ”に依存させることは、本来できないのである。p189-190

そして、「権利」の文脈で「攻撃と守備」を分ける手立てが「意思」であると説明している。森保監督のいう「どちらもボールを握っていない場面」では、「ボール」をターゲットとした場合に、ボールに向かうのか、それともボールに行くのではなく、ブロックを形成しディフェンスの意思を明確にするかなどの差異が不明確になるわけである。ここに「意思」を組み込むことにするのだ。攻撃時には「相手ゴール」、守備時には「相手ボール」と意思を明確化することで、チームとしてのコンセプト形成とともに迷いを減らせるのである。守備時に「相手ボール」ではなく、その反対の「味方ゴール」としてしまった場合の事例も思考されおり、このことはまさにスペイン戦でモラタに決められた1点目やクロアチア戦のペリシッチに決められたゴールに言えることだろう(クロアチア戦においては、意思というよりもフィジカル的な側面も考慮されて然るべきだろうが、その距離をつめる一歩が出なかったことは意思としてのクロアチア選手との差があっただろう)。

逆に、ボールを持っていない時のターゲットを「味方ゴール」と無自覚に認識している場合、それは「無抵抗な守備」として表出する。後方でブロックを形成しながらも、ボールホルダーに圧力がまったくかからず、自由なクロスを上げられ、人数が揃っているにもかかわらず失点を許すシーンを散見するが、これは「意思が向かう物(地)=ターゲット」が「味方ゴール」なってしまっている典型例である。さらに日本サッカーで頻発するのが、例えばペナルティエリア付近でドリブルを仕掛けてくる相手に対して、相手と同じこと速度あるいはそれよりも早い速度でボールから離れ、数秒間間合いを保ち、その結果シュートを打たれて(あるいは近くからクロスを上げられて)失点をするようなシーンだ。彼らからすれば「ボールを持っていない=守備」であるから、“守っている”と言えるのである。このようにターゲットが「味方ゴール」になっている“守備”は、ドリブルで交わされることはないが、失点を防ぐことは一向にできない。

サッカーは「相手のゴールを攻めながら味方ゴールを守るゲーム」ではなく、「相手ゴールを攻めながら相手ボールを攻める(向かう)」ゲームである。これは決して私だけの哲学ということなどではなく、サッカーというゲームのルールがつくり出す構造である。p195-196

『競争闘争理論』では、この次の節で〈「退屈なゲーム」には「意思」がない〉というものが続いており、これは是非とも書籍を読んでいただきたい。このことはまさに意思なきサッカーを4年間積み上げることによって、日本代表離れを引き起こしたことが思い出されるものだ(現在、W杯の成功によって世間は忘れかけているが、「退屈なゲーム」が何度も繰り返されたことを思い出すべきである)。

サッカーというものを、「意思」を排除したボール中心に考える3局面で理解するのは難しく、4局面で捉えながら、意思統一をチームとして共有し、コンセプトとして打ち出していく必要がある。それを内面化して、いかに「闘う」ことができるのか。しかし、「意思」の欠如をW杯という舞台において露呈させてしまったのがコスタリカ戦であった。

〈「認知」の差〉

コスタリカ戦の敗北は選手間の〈認知〉の差と監督によるコンセプト提示の欠如が露呈したものであったと考えられる。この章と次の章ことは、河内一馬『競争闘争理論』第七章と第八章にあるので、是非とも参照されたい。

(攻撃→攻撃へのトランジション。つまりどこでスイッチを入れるのかということには)チームあるいはグループとしての“合図の役割を果たすイベント”が求められる。例えばそれを「あるプレイヤーにボールが入った時」のように人に依存させる、「FWにボールが渡った時」のようにポジションに依存させる、「サイドレーンにボールが入った時」などと空間に依存させる、または「相手センターバックDFラインから離脱した時」のように相手の振る舞いに依存させることなどによって、故意的に、あるいは自然発生的に共通認識を持つことができるようにする必要がある。

このように考えると、「ボールの持ち主が変わる時」という合図は、最も客観的に認知ができる、“分かりやすく意思をもてる(意思統一ができる)瞬間”として機能する。p233

コスタリカ戦、日本のボール保持時に目立ったのが意思のない、なんとなくのボールの横移動であった。どこでスイッチを入れるのか、誰にボールが入った時に攻撃→攻撃へのトランジションをするのか、その共通意識がないのがあまりに残念であった。どこでスイッチを入れるのかのデザインもないのだから、これでいこう!という攻撃のコンセプトもない。ドアの前で鍵を探し、家に入れず立ち往生する人間のように、困り果ててしまう選手たち。そこに鍵を差し出すのが、監督なのであり、森保監督であった。しかし、そのアイデアを提供することは私にはできないと明言しているし、選手たちに任せていたのであれば、その環境づくりは必要不可欠である。そのための方法論的なものを実行しているのが、2018年にロシアW杯を制したフランス代表やジダン監督時代のレアル・マドリーであった。

〈エコロジカル・アプローチ〉

彼らが用いていたのが「エコロジカル・アプローチ」と言われている。エコロジカル・アプローチとはコーチ側からトップダウンで指標を具体化していくようなプロセスではなく、プレイヤー個々、あるいはその個々が集団となった時に発生する相互作用(関係)を環境(≒制約)によって表出させ、ボトムアップでゲームの在り方を定めていく(定まっていく)ようなプロセスであり、個人による意思とその共有によって「自己組織化」が求められるのであったp235。

ここで私が主張したいのは、そのような「自己組織化」は、プレイヤーが持つ「意思」がなければ、そもそも起こり得ないということである。サッカーは、“何もしないでも良い(成立する)ゲームであることを忘れてはならない。相手ゴールと相手ボールに対して、何がしたいのか。そういった強い「意思」に特定の制約をもたらすことで、サッカーというゲームにおけるプレイヤーの「自己組織化」が行われていくのである。

前述したチームが、仮にエコロジカルなアプローチでトレーニングを行っていたり、あるいはゲームモデルのデザインを行っていたりしたとするならば、間違いなく、各プレイヤーが培ってきた「意思」があり、それを「コミュニケーション」として機能させることができる能力や経験を持つプレイヤーが揃っていて、その上で、抽象的な指標(ゲームモデル)をチームとして(トップダウンあるいはボトムアップで、また人為的あるいは自然的に)共有していたはずである。そしてその指標(ゲームモデル)は、「どの意思を持ってプレーするか(=どの「局面」でどの「フェーズ」をつくるか)を定める最低限の役割を担っているはずだ。しかし、それでも、チームがうまくいかなくなった時や、ピッチ上でリーダーシップを発揮できるプレイヤーがいない場合、あるいはそもそも「自己組織化」を期待できるほどの時間と環境がない時などは、“極めて具体的な指標を設けていないこと”がマイナスに働くこともある。だからこそ、この手の仕事はコーチにとって、複雑で繊細なのである。p235-236

森保監督は選手の自主性を重んじて、“任せていた”監督であった。ドイツ戦の逆転劇は偶然にもそれが当たったわけだけれど、今回のコスタリカ戦においては全くといって機能しなかったわけである。それは4年間という時間を用いたにもかかわらず「自己組織化」するための努力を行わなかったからであり、つまり、「どの「局面」でどの「フェーズ」をつくるか」という意思共有を行なっていなかったからである。試合終了直後、世間では、伊藤洋輝が三笘にボールを供給しないことが議論の対象になっていたけれど、果たして彼だけの問題なのだろうか。森保監督、また、日本チームとして、強い「意思」に特定の制約をもたらすことで、「自己組織化」することの重要性を認識していただろうか。三笘は強い「意思」に基き、ボールをよこせと要求することはできなかっただろうか。それらを森保監督は伝えていただろうか。

コスタリカに先制点を決められた直後の解説・本田圭佑の言葉が印象的である。

もうちょっとこの時ね、画面に映ってないですけど選手が話し合ってないんですよね。もっとこの時、全然オッケーていうふうに顔を合わせなきゃいけないです。[・・・]全員がパッションを見せないといけないです。一個一個のプレーをちょっとずつリスク負うみたいな、良い意味で余計なことをやるみたいなのを全員が見せないといけないです。それってパッションを見せてかないとできないプレーなんですよ。もう一歩運ぶとかね。[・・・]焦っていいんですよ。焦らないとダメです。その焦りを良い方向に変えないと。

本田圭佑が言うこともまた、パッション(意思)とその共有(コンセプト)であるだろう。そして、本田は「三笘にあずけろ」と何度も言及する。しかし、伊藤洋輝は三笘に預けることなく、バックパス、中への楔、横パスへと終始してしまうのだった。それはなぜか。本田圭佑が言うところのパッションというもの、そして、その共有がなかったからであり、それによって認知の差が埋まらなかったからであるだろう。

まったく同じ場所かつ同じ条件でボールがある(相手プレイヤーが保持している)とする。プレイヤーAはそれを視覚的に「認知」した結果「危険である」と判断したが、プレイヤーバーは「危険ではない」と判断する場合がある。その場合、まったく同じものを「認知」しているはずであるのに、「実行」には違いが出てしまう。前述したように「認知」はサッカーにおいてコミュニケーションとして機能しない。そこで重要になるのが「危険な状況である」あるいは「危険な状況であった」とチームメイトに“伝える”ために「感情を表出させる」ことである。p247

この認知の差を選手間の感情によって埋めること、その「エコロジカルなアプローチ」を目指していたはずの日本、また森保監督。しかし、それは機能しなかったし、そのための準備がされていたのかも疑問が残る。W杯後のしっかりとした検証が求められるところであるだろう。

ドイツが決めきれずに日本に負けたのと同じようにして、今回の日本の敗戦を語ることはできないように思う。ドイツは枠内に良いシュートを飛ばしていたけれど、権田に塞がれてしまった。しかし、コスタリカ戦の日本は枠内に良いシュートを飛ばせていなかった。決めきれなかった、ということはないだろう。決定的なチャンスを作ることができなかった、結局のところエコロジカル・アプローチによる攻撃のデザイン、そのためのパッションがなかったのだと言わざるを得ない。

そして、コスタリカ戦での〈認知〉の差とコンセプトの欠如と同様のことを引き起こしたために、クロアチア戦はPK戦までもつれ込んでしまった。

〈連戦のなかで〉

今大会はシーズン途中の冬開催であり、グループステージも中3日という過密日程であったために、とても厳しいことはもちろんなのだけれど、他のチームと比較してなぜ日本代表はあんなにも疲れていたのかということについても考えておきたい。東京オリンピックのときもそうであった。ターンオーバーがうまくいかなかったこともひとつの要因ではあるだろうけれど、しかし、他国の選手ですべての試合に出ていながら走り切れている選手はいたわけであるし、クロアチアにしても疲れてはいたけれど、どこか日本ほどの切実な疲労ではないようにも思えたのである。ここで思い出すのは、プレミアリーグに移籍したばかりの時の冨安のことだ。プレミアに来たばかりでそのプレー強度に適応するのが難しかったとはいえ、アーセナルや敵チームの面々が試合後、普通に歩いているなかで、冨安だけがピッチに座り込み、ものすごく疲れていたというあのシーンだ。そして、その疲労の蓄積によってその後の怪我を引き起こしてしまったこともあるだろう。そのことについて冨安は「常に100%、120%の力でやるというところを、80%くらいの力で。手を抜くわけではないけど、うまくやらないといけない」と語り、続けて「80%くらいの力で(できないといけない)。ただそれは100%の力が高いレベルにないとできないことなので、まずは100%の力を高い位置まで引き上げたい」と力説している。

web.gekisaka.jp

冨安はこのことについて、クロアチア戦後のインタビューでも言及している。連戦のなかで、闘い続けるには普通のレベルを上げないといけない、と。

「当たり前のレベルが上がれば勝てる集団になると思う。前回大会でフランスが優勝したけど、なぜブラジルであったりが強いのかと言われると、普段どおりのプレーで勝てちゃうから。120%出さなくてもいいからだと思う」

しかし、「それが日本代表に可能であるのかはわからない」とも話しているのであって、なかなか難しいところなのだろう。

web.gekisaka.jp

80%でやるというのは、つまるところ、試合のなかで力を入れるところと抜くところを見極めるということなのであり、そして、日本とクロアチアの差はそこにあったのだろう、と。〈「競争」的な思考態度に引き摺り込む〉の章にて扱った、中村憲剛と田中碧の対談で田中碧は「(クロアチアは)力の出しどころをわかっていた」「(他の強豪国も)徐々に力を上げていく」と表現していた。

モドリッチというあまりにスペシャルな選手を例に出すのはなかなか酷なのだけれど、モドリッチは日本戦において、明らかに試合に出てこなくなった時間帯というのが存在しており、かと思えば、ゴール前の良い位置でボールを受け取ったり、こぼれたボールを拾ったりして、シュートを放つシーンを見せていた。左SBのバリシッチにしても、足をつっている様子を見せながらも酒井宏樹と対峙しうまく身体をぶつけることでファールをもらうなど、うまく停滞させることで試合をコントロールしていたように思う。“狡猾さ”と言うとあまりに単純なことになってしまうのだけれど、このこともまた「闘争」的なサッカーの本質であるのだと考えられる。連戦のなかで、この思想のもとにいかに試合をコントロールできるのかということは4年後の課題として残ったのであり、12月29日に森保監督の続投が決定した今、4年間かけて見ていく必要があるだろう。しかし、今回のドイツやスペインを見ればわかるように、明確なコンセプトによる先入観が試合を難しくしてしまうこともあったのは確かである。そして、あくまでも“W杯”においては、選手のコンディションと一体感が重要なのであり、そうすると日本人監督、森保監督の資質が適しているという結論も一定程度、支持できるとも思ってしまう。これは難しいところであるが、随所にそれ以外のプロセスにおいて疑問を抱かざるを得ないシーンはたくさんあったのであり、そこを指摘していくことは大切になるだろう。

〈さいごに〉

このエントリーでは、仮説を立てながらも投げっぱなしになってしまったものもあり、個人的には反省しなければならないところである。しかし、今回のW杯における森保JAPANの勝利が、サッカーというものを考える上でかなり難しくしてしまったことはあるだろう、と思われる。それだけ劇的なことをしてしまったのだから、これだけ興奮するエンターテインメントになったわけであるのだけれど、確率的には低いこと、つまり、多分な「運」による作用が大きいところで勝負したということは指摘するまでもないだろう。ここで私自身も理解しきれていないことは4年間を通して勉強していかなければならないと自戒もこめつつ今回のエントリーを終わらせたいと思います。ベスト8が実現している未来を夢見て学んでいきましょう……4年後楽しみですね!