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サリー・ルーニー『ノーマル・ピープル』山崎まどか 訳

f:id:nayo422:20230106194451j:imageサリー・ルーニーによる長編小説2作目である『ノーマル・ピープル』は、生まれなどを含む環境、個人の性質、財産などがこの世界における資本主義的なルールのなかで格差としてどう存在するのかを物語として表象した上で、しかし、それゆえに“かけがえのなさ”を補完するような形で結びつき合う恋愛関係の美しさというものもまたどうにも立ち上がってしまうのである、というこの世界で“普通”に生きていくことの眩しさと難しさが描かれている小説だ*1

学校の人気者であるコネルと、ここには自分の居場所はないと疎外感を抱えているマリアン。アイルランド西部スライゴの小さな町、労働者階級が多数を占める高校が物語はじめの舞台となっている。コネルはいつも人気者グループのなかにいて快適な学生生活を送っているのだけれど、マリアンはいつもひとり校内で過ごしていて周りから嫌味を言われてしまう存在。そんな交わることのなさそうな2人に接点があるのは、弁護士を親に持ち大邸宅で暮らすマリアン家のもとで、コネルの母親であるロレインが家政婦として働いているからだ。ロレインの仕事終わりに合わせて車で迎えに行くことが日課であったコネルは、そこでマリアンのもとを訪れ、少しばかり他愛のない話をすることが日常の一部となっていた。ユーモアと知性を多分に含んだ会話のなかで、コネルはマリアンが学校で陰口を言われるような人間でないことを理解し、マリアンもまたコネルは排他的な労働者階級のそれがないことを知っていく。互いに惹かれあう2人だけれど、あまりに狭い箱庭に押し込められた学校というコミュニティのなかで他者からの視線を感じ、なかなか普通の恋人にはなれないのだった。大部分はコネルがスクールカーストから弾かれてしまうことを気にしてしまっていたからであったのだけれど、マリアンもそれを理解し、校内ではあくまで他人のように過ごした。この非対称的な関係の持続の困難さとある決定的な出来事によって、2人の関係は終わるともなく消失していくのだった。

しかし、この非対称的な関係が大学に進学することで反転することになる。大学では、高校までの労働者階級が多数を占めていたそれとはちがって、裕福なブルジョワジーが多く、今度はコネルがここには居場所がないと感じるようになってくるのだ。クリスマスパーティーでのコネルとジェイミーのやり取りからはオーウェン・ジョーンズ『チャヴ、弱者を敵視する社会』冒頭のようなものがある。

でもやめようと思えばやめられるんじゃないか、ドラッグは?ジェイミーは言う。
コネルは笑って言い返す。そうだな、あいつらはそんなの考えたこともないんだろうな。p187

あまりに構造として格差が固定化されてしまって、自助努力ではどうにも解決できないのであり、差別とも思わずにナチュラルに嫌悪や差別意識を表象してしまうという恐ろしさが垣間見れる(ジェイミーに関しては露悪的に描かれすぎており気の毒でもあるのだけれど)。

さらに、裕福な家庭で育つマリアンが奨学金無償化のテストに合格し、労働者階級の生徒は学費のために働くことを優先しなければならないことで勉強の時間が取れず、本当に必要であるはずの彼らが奨学金無償化のテストに合格することができない、という構造的欠陥について、コネルとマリアンが言い争いになったシーンでは、マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』における「実力主義」という言葉も飛び出し、この世界における非対称的な構造を浮かび上がらせる。

もちろん、ひどいと思うよ。「実力主義」なんて概念はその中身が何であろうと、はじめから最低最悪なものだって私が考えているって君は知っているよね。でもじゃあどうすればいいって言うの、奨学金を返還すれば済むの?それでどんな恩恵がもたらされるのかなんて分からないのに。p222

各人の自助努力だけではシステムを瓦解させることは難しく、しかし、だからといって開き直ってそのシステムの恩恵を享受することの苦しさもまた存在する。

数千人もの人々が、プラカードやメガフォンやバナーを持って来ていた。マリアンはそれを見て自分の人生を意義のあるものにしたい、強者が弱者にふるう全ての暴力を撤廃したいという気持ちが湧き上がってきて、数年前まで自分は若くて知的でエネルギーに満ちていて、そういう偉業も達成できるのではないかと考えていたのを思い出したが、本当のところ自分にはそんな実力はなくて、無実の人々が恐ろしい暴力に遭う世界でただ生きるだけで、どんなに頑張ったところで少数の人たちしか助けられないのだと今では分かっていた。自分がその程度しかできないと認めるのがよっぽと辛くて、ちっぽけな貢献しかできないのなら誰も助けられない方がましだとも思ったが、それもきっと正しくないのだろう。p286

本作は、タイトルによって章が分けられているのでもなく、単にアスタリスクを置いて区切っているのでもなく、3週間後、1ヶ月後、2日後と、7ヶ月後というふうに章が接続されており、それはつまり時間の経過の中で過ごす彼らのことを表象しているのであって、空白さえも物語にしているのだけれど、であるから、マリアンがこういう思いを抱えることになるという“時間のなかで成長していく”密度が切実に身に染みることになる。

本作において最も素晴らしいのは、幾度も扉を開けるコネルとラストにそこが反転する瞬間であると言い切ってしまっていいだろう。コネルは一時的に非対称的な関係を押し付けはしたものの、マリアンが塞ぎ込む空間にブザーを鳴らし扉を開けて何度も連れ出そうとしている。物語はじめの一文は、「コネルが呼び鈴を鳴らすと、マリアンが玄関に出てくる。」であるし、そのほかにも例えば、先述したコネルとジェイミーのやり取りが行われたパーティにブザーを鳴らし*2、例えば、露悪的なマリアンの兄から救おうと、ドアベルを鳴らしている*3。彼はブザーを鳴らし、その空間だけが世界ではないことを知らせるひとであったのだった。

それゆえに、物語後半で高校時代の同級生であったロブの死が明かされたとき、彼に連絡を取っていさえすれば、闇の淵から救い出すことができたのではないかと考えてしまい、コネルは鬱症状に悩まされることになるのだった*4

コネルは幾度も扉を開け、マリアンは何度も助けられた。物語のラスト、この土地を離れること、そしてマリアンから離れることに躊躇い、ニューヨークの大学への進学を決心できずにいるコネルの背中をマリアンが押すのだ。

君は行くんだよ、彼女は言う。私はいつだってここにいるからね。そうでしょう。p333

この世界における持続不可能な構造は、永遠とまではいかなくても、しばらくはこのまま維持され続けるだろう。しかし、隣にいる他者へ向けたほんの少しの贈与によって、こうして小説を読むことによって、そこから生まれる変化によって、世界はたとえ少しずつでもその様相を変えていくはずである。自分は無意味な存在ではなく、そして、この世界は生きるに値するのだとマリアンが思えたように。

「二人はお互いに対して沢山の恩恵を与えられたのだ。本当にそうだと彼女は思う。本当に。私たちは本当に相手に変化をもたらせるのだ。p333」

「文学は何かに抵抗する手段にはなりえない。それでもその夜コネルは家に戻ると、新しい短篇のために書いてあったメモのいくつかを読み返して、サッカーの完璧なゴールのような、木漏れ日がキラキラと揺れ動くような、通り過ぎる車の窓から聞こえてきた曲のフレーズのような、そんな喜びの鼓動がかつてのように自分の中で脈打っているのを感じた。 どんな状況であっても、人生はこんな喜びの瞬間を運んでくる。p279」

*1:彼女のデビュー作である『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』においても、人間関係と資本主義的な構造がうまく重なり合い…という指摘はあったのだけれど、それらのことがそこまで上手くいっているようには思えず、世間の高い評価に対して、うーん、そうかあと首を傾げてしまったのだけれど、本作はプロットとその構造のなかで揺れ動く人間関係の機微が素晴らしいように思えたし、こちらの方が断然好きであった

*2:「コネルが玄関のブザーを押したのは〜」p185

*3:「彼がドラベルを鳴らすと〜」p314

*4:個人的にはAMAZON PRIME ORIGINAL『ALL or NOTHING: Arsenal』エピソード3での労働者階級におけるドラッグや鬱、SNSなどを語るティアニーの姿を思い出した