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諫山創『進撃の巨人』最終巻に寄せて

f:id:You1999:20210511140538j:image4月9日(金)発売の「別冊少年マガジン」5月号(講談社)にて、11年7か月におよぶ長期連載に幕を下ろした諫山創進撃の巨人』。そして、6月9日(水)、単行本の最終34巻も無事に発売されての堂々完結である。ついに終わってしまったのだ。これだけの物語をきっちり34巻におさめきって、さまざまなテーマを盛り込みながらも、そのすべてが散らばることなくひとつの物語を編んでいったのだ。そして、エンターテイメントとして成立している、なんとすごい漫画だろう。偉大なる漫画家・諫山創に盛大な拍手を。まだ今年の冬にアニメが待っているので、あとはそれを楽しみに待つことだけですね。私たち、人間(巨人)の歴史について描かれた本作を世界に放った諫山創にもう一度拍手を。

 

〈人間が巨人になるとき〉

地上には巨人がいます、

かれには、なんの苦もなく機関車をもちあげるような、そんな腕があります。

かれには、一日に数千キロも走ることができるような、そんな足があります。

かれには、どんな鳥よりもずっと高く、雲の上はるかにとぶことができるような、そんなつばさがあります。

かれには、どんな魚よりもずっとたくみに、水の中を泳ぐことができるような、そんなひれがあります。

かれには、見えないものをみる目があり、ほかの大陸で話していることを聞く耳があります。

かれには、山をつらぬき、たぎり落ちる滝をとめるほどの、そんな力があります。

かれは、じぶんの思いのままに、大地をつくり直し、森林をそだて、海と海をつなぎ、砂漠を水でうるおします。

この巨人とは、いったいなにものでしょうか?

この巨人とは、人間なのです。

イリーン、セガール『人間の歴史』

 

〈壁内に退却し、閉じこもること〉

およそ二千年もの間、途方もない数の民族を蹂躙し文化を奪い、エルディア帝国は巨人の力で世界を支配していた。しかし、やがて敵がいなくなると、彼らは仲間同士で戦いを始めてしまう。巨人の力を持つ家が争い、血を流し合った。マーレ人である英雄ヘーロスはそこに勝機を見出し、巧みな情報操作によって同士討ちをさせ、タイバー家と手を組むことで、フリッツ王をパラディ島へ退かせることに成功したのであった。壁の王は幾千の超大型巨人を抑止力に束の間の平和を享受することに決め、不戦の契りを結び、民から記憶をも奪い去って、そこを楽園であるとした。他者に危害を加えない限りにおいての自由を得て、誰からも介入されない自由の下で、始祖の巨人の力を継承していきながら、緩やかに死を目指していくのであった。

禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入り口の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕らえられてしまった場合よりはたしかにより自由であるだろう。しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜にした場合よりも自由であろうか。もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。自分を傷つける可能性のあるものを全てとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。

バーリン『自由論』333-334頁

ジーク・イェーガーもまた、巨人の脅威から世界を救うために安楽死計画なるものを企てるのであった。しかし、フリッツ王が享受した束の間の平和は本当に平和であるのか。ジークが安楽死計画を達成したとして、その後、世界に平和は、自由はもたらされるのだろうか。

 

〈駆逐すること〉

突如現れた超大型巨人によって名ばかりの平穏を守っていた壁は壊され、街には巨人が侵入し、人々は喰われた。人類はウォール・マリアを放棄し、活動領域はウォール・ローゼへと後退させられた。主人公・エレン・イェーガーの目の前で母親が巨人によって喰われてしまうという悲劇も起こった。そして、エレンは怒りの涙を流し宣言するのだった。

あいつらこの世から駆逐してやる…

この世から1匹残らず…!

諫山創進撃の巨人』1巻

連載が開始された11年前、“駆逐”という言葉は『進撃の巨人』を象徴する言葉となり、読者はエレンが立ち向かう姿に夢中になった。炎の水、氷の大地、砂の雪原が広がる外の世界を見るために、巨人を駆逐し、海の向こう側にある人類の自由を獲得するために戦う姿に釘付けになった。しかし、外側にいると思っていた敵はやがて内側に存在していたことが明らかになる。壁を壊した超大型巨人も、鎧の巨人も、女型の巨人も自分たちと全く同じ容姿をし、同じ生活をしていたのだった。そして、内側にいる敵であった彼らは外の世界からやってきた同じ人類であったことを知ることになる。グリシャ・イェーガーの半生、巨人とその歴史、壁外世界の情報。地下室に残された3冊の本がパラディ島の狭まった視野を押し広げ、世界が存在することを教えてくれたのであった。そして、エレンたちの戦いはより一層厳しいものとなるのであった。

壁の向こうには海があって、海の向こうには自由がある…ずっとそう信じてた…でも違った。海の向こうにいるのは敵だ。何もかも親父の記憶で見たものと同じなんだ。なぁ…向こうにいる敵…全部殺せば俺たち自由になれるのか…?

諫山創進撃の巨人』22巻

このときになって我々が自由でいられる場、公共的空間についてを考えなければならないだろう。外にいる敵を、すべて我々の自由を脅かす他者は排除してしまえば、“駆逐”してしまえばよいのではないか。何千人もの仲間を殺してきた彼らをこの世から消してしまえば、そこに自由な場が立ち上がるのではないか。

だが、そのような他者は駆除してしまえばよいのではないか?無差別なテロを仕掛けてくる他者と共存することなど不可能であり、また不必要ではないか?そのような他者は、もはや、われわれの公共的空間の容量を超えたところにいるのであって、彼らを排除してしまえばよいのではないか?彼らの排除こそ、むしろ、公共的空間の成立にとって不可欠の実践的条件ではないか?

大澤真幸『自由という牢獄』129頁

しかし、海の向こう側にいる他者すべてを駆逐し自由を獲得するということは可能なのか。また、そのことは正当化できるのだろうか。フリッツ王やジークが壁の内に閉じこもることを選択し、他者からの介入を排除したところに自由を得ようとしたのに対し、エレンは壁の外に、この世に生まれたからには自由を手にする権利があるのであって、自らの信念に付き従う自己支配、アイザィア・バーリンでいう積極的自由の立場をとっていたのであるけれども、そこにおいて、バーリンが危惧していたことが起こってしまうことによって、エレンの正当性は揺らぎ始めるのである。マーレへと潜入したエレンはレベリオ収容区で多くの人々を殺した。そして、地鳴らしによって世界を蹂躙した。しかし、この理不尽な大虐殺は本当に必要だったのだろうかと思わずにはいられないだろう。自由を求めた、そのことによって他者の自由を踏み躙ることは避けられなかったのか。バーリンはこうした価値一元論によって遂行される信念を否定している。

理性的な自己支配、非理性的なものによる他律の排除を求める積極的自由の観念が、自由の名による自由の抑圧を惹き起こすのは、このような価値一元論の信念によって支えられるときである。

齋藤純一『自由』28頁

もはやここにきてエレンを擁護できる読者はおらず、積極的自由の暴走を目の当たりにすることで、われわれは困惑するのだ。果たしてこの先に自由はあるのだろうか、と。しかし、フロックは言うであろう。地鳴らしによって世界を踏み潰し、パラディ島の外を平坦にしてしまえば、脅威はなくなり、そこには自由が立ち現れるのだ、と。

これでパラディ島は安泰だとお考えのようでしたら…お気の毒に…ただ世間が狭くなるだけのことです。相も変わらず同様の殺し合いを繰り返すことでしょう…

諫山創進撃の巨人』32巻

しかし、それはアズマビト家のキヨミが言っているように、そこに自由、公共的な空間は訪れやしないのである。パラディ島やマーレ内部での対立(フロック率いるイェーガー派やイェレナ率いる反マーレ派義勇兵)を見れば明らかであるように、外的な対立は内的な対立をも孕んでいるのであり、外的な他者がある点からすれば自分自身であるために、そこに終わりはないのである(大澤真幸『自由という牢獄』201頁)。

その外部に、対話が著しく困難な他者を有しているだけではない。それ自身の内部に、調停困難な他者を孕んでおり、内的に矛盾しているのである。

大澤真幸『文明の内なる衝突』74頁

地鳴らしによって他者をすべて消してしまい、パラディ島だけが残る。そこに自由がないということは、戦いが、排除することが終わらないからということだけではない。エレンが自らとは異なる他者を踏み潰し、何もかもを消し去ったそこに自由な行為がおりなす公共性がやってこないのは、それを構成するときに最も重要なものが他者とのつながりだからである。ハンナ・アーレントがいった現れ、他者と出会うこと、その自由を奪ってしまうからこそエレンの行為は決して肯定されないのである。

われわれは、この「敵」を排除した範囲内での公共的空間を定義することは不可能だからだ。なぜか?論じてきたように、その「敵」が「われわれ」自身のもう一つの本性であるならば、その「敵」を分離した、「われわれ」だけの純粋な公共圏を構成することは不可能だからだ。

大澤真幸『自由という牢獄』133頁

政府の支持者のためだけの自由、ある党のメンバーのためだけの自由は––たとえそれが多数者であっても––けっして自由とは言わない。自由とはつねに、異なる考えをもつ人への自由を言うのである。それは、「正義」へのファナティシズムゆえにではなく、政治的自由が私たちを教え、私たちを正し、私たちを浄める力、それがこの点にかかっているからであり、もし、「自由」が誰かの私有財産になってしまえば、そうしたはたらきが失われてしまうからである。p255-256

ローザ・ルクセンブルク選集』第4巻

すべて敵を排除した先に、自由はやってこない。壁の中に閉じこもって、自由を求めたフリッツ王のそこが楽園ではなかったことを思い出してみればわかるだろうし、世界を踏み潰すこともあってはならない。ある一つの価値に傾倒してしまうことは、他者が自らとは異なった価値を生きる自由を否定し、他者支配を正当化する論理を導きだしてしまう価値一元論に対する批判を行なっていたバーリンに、やはり、ここでもう一度出会うことになるのである。

人々が追及するさまざまな価値の間には、同一の尺度をもってその優劣を比較することができないという意味での共約不可能性があることを認めなければならない。バーリンが擁護する価値多元論の前提は、「人間の目標は多数であり、それらすべてが共約可能(commensurable)であるのではなく、しかも相互に絶えず競合している」というものである。

齋藤純一『自由』29頁

私たちは何か一つを積極的に選ぶということはできない。公共圏は、もはや共約不可能であり、幾つもの価値が存在するなかで、絶望的な状況に追い込まれてしまう何か一つを選ばないことにこそ、私たちはエネルギーを注がねばならない。バーリンが積極的自由ではなく、消極的自由を擁護するのはこのためである。

一般原則としてなしうる最善の事は、絶望的な状況の発生を防ぎ、絶え難いような選択は避けられるような均衡状態を、たとえ不安定なものであっても維持していくことである。

河合秀和訳『理想の追求 (バーリン選集 4)』25-26頁

 

〈道〉

我々が自由を目指すには徹底的に他者を排除することを選択してはならないのであった。他者との間にこそ、自由は立ち現れるのであるからだ。壁の内に閉じこもること、壁の外にいる他者を踏み潰すことではない方法を見つけなければならない。しかし、エレンたちもそうであったように、その他者との繋がりを模索することがいかに困難であるかを見たのであった。“何か”が足りないのであるし、それがどこにあるのかもわからない。

すべてのエルディア人は道で繋がっている。それはおそらく…始祖ユミルが繋がりを求めているからだ。僕らに何かを求めて…

諫山創進撃の巨人』34巻

過去と現在と未来をつなぐ“道”というモチーフは『進撃の巨人』において重要なものであるだろう。始祖ユミルは、繋がりを求め、連綿と受け継がれるこの道を作っていった。繋がるためにはどうすれば良いのか、その“何か”を求めて。結論から示してしまえば、それは“愛”であって、自由な行為がおりなす、開かれた、公共性は最も私的な空間にこそあったのである。駆逐することや壁の内に閉じこもること(排除や閉鎖性)にしか結論を見出せない困難な状況にあって、しかし、そこにおいてこそ、僅かな可能性が、“道”が、見出せたのである(大澤真幸『自由という牢獄』245頁)。さて、そのことに行き着くために、私たちと他者における私的な関係についてを考えてみるほかない。

他者と私たちとが同じであるのは、外的な対立は内的な対立を孕んでいること、またレベリオ襲撃の夜、エレンがライナーに言ったことなどからも読み取れるのだけれども、ここでは、大澤真幸による求心化作用/遠心化作用から検討していこうと思う。求心化作用とは、宇宙をこの身体=〈私〉に対するものとして、〈私〉へと求心的に配備、準拠点を与えるものである。と同時に、志向作用の準拠点を他所へと––志向作用が差し向けられた対象の方へと––移転する動きを活性化させるものが遠心化作用である。両者は密接に絡み合っていて、別なものではなく、一体性をとっているのである。例えば、触れる/触れられることはそれを端的に表しているという。(〈私〉が)触れるということ––求心化作用––は、触れられるということ––遠心化作用––でもあるのだ(このところは、伊藤亜紗『手の倫理』を読むと面白いかもしれない)。それは見る/見られるという関係においても同様であることを指摘する。

〈私〉が求心点をなして宇宙にかかわっているときには、他者は、〈私〉の志向作用の受動的対象である。ところが、しかし、〈私〉を求心的な準拠点とする、その働きかけは、厳密に遠心化作用と一体化しているのであり、それゆえ、同時に、〈私〉自身が、あるいは〈私〉の行為自身が、他者––遠心点となる身体––の能動的な働きかけの受動的な対象でもある。したがって、ここには、ある循環が構成されている。すなわち、〈私〉の能動的な働きかけが、その働きかけの対象であるところの他者の能動性に規定されている、という循環がである。このとき、他者は、〈私〉の受動的な対象であるというそのことにおいてこそ、〈私〉の能動的な働きかけを構成し、触発する能動性である。

大澤真幸『自由という牢獄』233-234頁

先に示しておいた外的な対立は内的な対立をも含んでいること、また、敵が私の内なる本性であることなどがここに繋がってくるのである。私達の能動性は他者の受動的な能動性によって貫かれているのであり、私たちの能動性もまた他者によって規定されている。そのため、他者は〈私〉に内在している、もっと言えば、〈私〉が既に同時に、他者なのだ、とするのである。地鳴らしが発動し、世界を踏み潰すエレンを止めるにあたって、彼らが連帯したのは、世界を救うという正義に満ちたものではない。誰もが、すべての他者に対して罪を負っているということ、すべての他者、自分の敵に対してでさえも、重い責任を有していることにおいて連帯し得たのである。

人は、すべての他者を傷つける可能性があり、罪を負っている。そうであるがゆえに、他者との関係から撤退すれば、「全てが禁止されている」状況に、つまり徹底した自由の否定に至りつく。逆に、そのような普遍化された罪の可能性を、他者との関係構築のための普遍的な媒介として積極的に活用すれば、最大の〈自由〉を得るだろう。

大澤真幸『自由という牢獄』321頁

共約不可能な価値多元論であるからして、公共性は実現可能となるのであるけれども、しかし、それゆえに、連帯することが困難であったことを、私たちはこれまで『進撃の巨人』で見てきた。人々が互いに尊重したり、共有している何かをもとに公共圏を構成することを目指していたけれども、それは途方もなく難しく、もはや実現不可能であった。「どちらの側も、自分のものの見方が正しいのだと本気で思っているのだということだ。だから、一方は何も悪いことをしていない、ずっと苦しめられている被害者で、他方は底意地の悪い、不誠実なサディストだという図式ができあがる」(スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』下巻214頁)。そうであるから、バーリンの価値多元論では、不安定な対立状況であっても、絶望的な選択をしないことに重点をおき、それを維持していくことが求められた。だが、もしも連帯を諦めないとすれば、大澤真幸が指摘した、誰もが自分自身にある他者の内在性、それを手がかりに連帯しなければならないのである。異なった私たちが、自己が他者を思うことには限界があり、むしろ、誰もが自己に内在する他者、というその亀裂によって、誰もが他者に対して負っている罪によってこそ連帯しなければならない。

そして、それは受動性を分かち合う愛の関係、私的な空間において、見ることができるかもしれないのであった。

〈普遍的公共性〉がありうるとするならば、それは、私的な、あるいは少なくとも親密な関係を究極の温床とするほかない。身体の本源的な受動性を受容しあう愛の関係のような体験の水準を、である。

大澤真幸『自由という牢獄』245頁

進撃の巨人』で、二千年前から始まった巨人の支配が愛というものから生まれたのであれば、それは愛の空間でのみ断ち切ることができたのである。

人間は死に向かうしかないという点において、根本的に有限である存在だ。その有限性から逃れ、個我を超越し、無限の方へ、より強く、より巨大な不死身の体を生み出し、そして死さえ存在しない世界へと始祖ユミルは逃れたのであった。そして、その世界で始祖ユミルはフリッツ王を愛し続け、巨人の支配も続いたのであったが、そこには求心化作用/遠心化作用という働きがなかったのである。フリッツ王はユミルをひととして見るにとどめ、その個人としての固有性を見ることはなかったのだった。哲学者・真下信一もまず、自己の内に立ち現れる他者を論じたうえで、無関心というのものが、愛の対極にあることを指摘している。

まず、AならAという人の個人としての範囲、つまり個我としてのあり方がいったん否定されるのです。否定して、相手の個我と、できるならピッタリ一致したいのです。しかし、ピッタリ一致することは不可能で、できるだけ重なる範囲を大きくするだけです。こうして否定されたAは、こんどは相手のBの中で生きかえってくるのです。Bも同じです。つまり、両者がそれぞれ個我としてはいったん否定されて、より大きな“私”として生きかえってくるわけです。[・・・]“関心”という言葉で示される愛のはじまりは、自分の中だけにいるという限界を突破して、相手の中に入り、その内側から相手のことを気にかけるということです。傍観者として外から見ているのではなく、相手の身になって、相手の内側から感じるわけです。だからなにごとにも無関心というのは、愛情から最も遠い真理といえます。

真下信一『自由と愛とー現代を生きる人間の哲学』129-121頁

始祖ユミルは有限の世界でそれを断ち切ることはできず、死さえ存在しない無限の世界へと退却していたのであった。そうであるからして、ユミルは、巨人を作り、道を作っていた。何かを求めて。その先に、ミカサが現れたのだった。未来は過去につながっている。ミカサがエレンの首を落としたとき、それは愛を断ち切ることにおけるユミルの決心をも強固にする。

 

〈物語ること〉

進撃の巨人』は物語るコミックでもあった。アルミンが現在の地点から過去を物語るという形式でアニメは進んでいたのであったし、エレンも未来を見て、その過去である現在を、そして過去を物語ることによって、一本の道を作っていたのであった。

僕たちの物語を

散々殺し合った者同士がどうしてパラディ島に現れ…平和を訴えるのか

僕達が見てきた物語

そのすべてを話そう…

諫山創進撃の巨人

始祖ユミルが二千年をかけて形作った道の先に現れたミカサ・アッカーマンがエレン・イェーガーの首を落とし、巨人の力をこの世から消し去った。もはや巨人の脅威は無くなった。そうであるからこそ、無くなってしまったこの巨人の脅威を物語らねばならない。物語を語ることによって過去に起きたことを歴史にし、存在させなければならないのであった。すべての痛みを、苦しみながらも私たちは物語らねばならない。

ギリシア語の「ヒストリア」の原義が能動的な「探究」の作業であったように、歴史とは過去の地層に沈澱し、もはや聞こえなくなった「死者の声」を聞き取るために、それを能動的に探求しつつ再活性化しようとする不断の辛苦にほかならないのである。

野家啓一『物語の哲学』298頁

進撃の巨人』単行本で加筆された部分が示すように、最終的な結末も、答えも用意されていないし、誰もがそれを見つけられずにいるのが、私たちの現実世界である。しかし、私たちは世界をどれほど理解することができているだろうか。

世界をわれわれが理解可能なものの総体であるとするならば、まさに「物語の限界が世界の限界である」と言ってよい。その意味で、物語り行為は世界制作の行為にほかならない。そして、われわれは、物語り行為による世界制作を通じて、ようやく物語りと世界の外部を「示す」ことができるのである。

野家啓一『物語の哲学』324頁

まだまだ私たちは物語らねばならないのだろう。悲しみも喜びも、そのすべてを。

リアリティは、事実や出来事の総体ではなく、それ以上のものである。リアリティはいかにしても確定できるものではない。「存在するものを語る(レゲイン・タ・エオンタ)」人が語るのは、つねに物語である。そしてこの物語のうちで個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な何らかの意味を獲得する。イサク・ディーネセン の言葉を借りれば、「あらゆる悲しみも、それを物語にするか、それについての物語を語ることで、耐えられるものとなる。」これは申し分のない真理である。(中略)物語るという行為が何であるかに気づいていた点で、彼女はおよそ独自(ユニーク)であった。彼女は、悲しみだけでなく、喜びや至福もまた、それらについて語ることができ、物語として語ることができて初めて、人間にとって耐えられるものになると、付け加えることもできたであろう。事実の真理を語るものが同時に物語作家でもある限り、事実の真理を語るものは「現実(リアリティ)との和解」を生じさせる。

ハンナ・アーレント『過去と未来の間』357頁

諫山創進撃の巨人』は11年7ヶ月かけて、物語り続けたのであった。私たちはそのことに賛辞を贈らなければならない。そして、彼の物語る力にどうしても次作を期待してしまうのだ。2014年10月号のインタビューでは、

「頭の中にあるのは、いつかモラトリアムものを描きたいということなんです。作品でいうと『アオイホノオ』や滝本竜彦さんの『NHKにようこそ!』、前田敦子さん主演の『もらとりあむタマ子』みたいな、人生の停滞期というか、何もしないで寝てばかりいた頃の自分を描きたい。」

進撃の巨人』すべてはこの男の脳内で始まった――『ダ・ヴィンチ』2014年10月号の諫山創氏インタビューを特別公開!https://ddnavi.com/interview/783080/a/2/

と話している。諫山創によるモラトリアム!『進撃の巨人』とは、むしろ反対にいく物語になるのだろうか。是非とも読みたいものである。