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「ドーピング」を考える---ポール・ポグバの活動禁止に寄せて

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はじめに---ドーピングを考える

2016年の夏にたくさんの移籍金を残してマンチェスター・ユナイテッドに旅立ったポール・ポグバが、フリートランスファーとしてユヴェントスに帰還したのは2022年の夏であった。ディバラに託した背番号10をもう一度自分のものとして受け取り、これから王者復権を担おうとしているクラブに多くのものを与えてくれることだろうとユベンティーニは期待していた。髪色をゴールドに染めたポグバはホワイトのジャージに身を包み、足元をブラックのアディダスのスーパースターで固め、白黒のユヴェントス愛に溢れた格好でトリノに到着した。なんとも豪華絢爛なその出立ちにクラクラと魅了されてしまうほどであった。そう、なんといっても彼の存在はとにかくゴージャスなのである。スカッドにたったひとり加わるだけで、これほどまでに豪華な陣容に見えるのか…と不思議に思うほどであった。

しかしながら、それから1年。ポグバは十分に怪我を完治させることができず、満足に試合に出場することはついにできていない。昨季は、公式戦161分の出場にとどまり、10番としての役割を果たすことはできていなかった。今季も途中出場がつづくなど、未だ万全のコンディションには戻っておらず、困難な時期を過ごしていた彼にとって、今季が勝負の年であることは間違いなかった。そんななか、9月11日、ポール・ポグバがイタリアの反ドーピング機関から暫定的な資格停止処分を受けたとユヴェントスから発表された。そして、再検査の結果が10月6日に判明したが、その検査でも再び陽性。ポグバの弁護士によれば、減刑の可能性もまだ残されているようだけれど、2〜4年間の活動禁止の処分は避けられないだろうとされている。

さて、今回のエントリーでは、スポーツにおいて切り離すことのできないドーピングの問題について考えを深めてみたいと思う。なぜドーピングは終わらないのか、どうすればなくなるのか。そのためには、ドーピングはなぜダメなのかについて考えなければならないだろうし、アスリートをとりまく環境や精神的負担などについても検討しなければならない。ドーピングはダメだからダメなのだと断罪することの、その先を見据えて考えることが大切である。ポグバはドーピング違反によって、選手生活を終えるかもしれない。しかし、ユベンティーニはポグバを愛しているし、彼が偉大なサッカー選手であることを忘れないだろう。後述するが、そのことは非常に重要なのである。それでは、瀧川裕英 編『問いかける法哲学』に収録されている米村幸太郎「ドーピングは禁止すべきか?」やマイケル・サンデル・J・サンデルの「美徳」概念、ジャン・ノエル・ミサとパスカル・ヌーヴェル編『ドーピングの哲学』などを参考に、ドーピングを巡る論争を辿ってみよう。本エントリーは、何か結論を示すものではない。ドーピングを考えることの一助なれば幸いである。

経済的成功とドーピング

選手はなぜドーピング行為をしてしまうのだろうか。まずもって、パフォーマンスをより良くしていきたいという選手の思いもあるだろうが、つまるところドーピングを使用することによって勝利を、さらにはその後の経済的な成功を手にすることができるからというのが理由のひとつとして考えられるだろう。ドーピングで金メダルを剥奪されたベン・ジョンソンのコーチが、「巨額の報酬を前にして、薬を飲んで勝つか負けるか、選択の余地はない」と言及していたり*1、選手のあずかり知らぬところでコーチが禁止されている薬物を選手に投与していた例があったりするのである。サッカーの移籍におけるマネーゲームでもそうだけれど、ひとりの選手の活躍によって、それを取り巻く多くの人々に多大なる経済的影響を与えることは紛れもない事実であって、個人にかかる精神的負担としては非常に大きなものがある。それが勝利への渇望をさらに促進するのである。また、過失によるドーピング、簡単にいえば、うっかりドーピングもある。これについては後述する。

では、次にドーピングを禁止する理由として考えられる、①ドーピングの副作用、②公平性の問題という2つについて見ていこう。

ドーピングの副作用と選手の健康問題

例えば、ヒト成長ホルモンの投与には、末端肥大症に似た症状が出現するリスクがあったり、手指や足底の肥大、額の突出、声の変化などが生じる可能性があったりするし、ステロイドには、男性化や女性化作用、動脈硬化、筋肉量の過大な増加に伴う骨格への負担などの副作用が生じたりする恐れがあるという。スポーツは、フランス語の「deport:気晴らしする、遊ぶ」に由来するのであって、ドーピングによって命に負担をかけながら競い続けることを我々は許容できるだろうか、と考えてみるとYESと言うのは難しいように思う。エイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』によれば、自転車競技におけるアンフェタミン中毒による死亡例も明らかになっているし (p51)、タイラー・ハミルトン/ダニエル・コイル『シークレットレース-ツール・ド・フランスの知られざる内側-』を読めば、自転車競技において、ドーピングを用いた上で競技に臨むことは日常生活の一部となっていたことも知ることができる。もちろん、これら過剰な摂取には対策が取られて然るべきであり、仮に未成年が過剰なドーピングを行っているのであれば止めなければならない。しかし、意思決定の行える成年が適量の薬物を摂取する際に、それを健康上のリスクだけを理由に禁止することができるだろうか。それを考えるには、タバコやお酒を考えてみるとわかりやすいだろうけれど、個人の裁量で摂取していることにおいて一定程度の自由が認められている状況が現実にあるわけである。そのようになっているのにはさまざまな理由が存在するが、健康上のリスクだけを理由に禁止にすることは難しいということを我々の社会は了解していることは明らかだろう。であるから、ドーピングもまた健康に悪影響を及ぼすという理由だけを根拠に禁止することは難しいのだ。

競技自体における健康上のリスク

さらに、そもそも競技によっては、競技自体が長期的に深刻な害悪を及ぼしうるものもある。例えば、女子長距離選手は無月経になるリスクを負っているし、力士やボクサーは競技生活によって、平均寿命が縮まるともいわれている。スポーツにもよるけれど、これらのリスクを許容しておきながらドーピングのみを健康上の理由から禁止するのは整合性を欠くだろう、というわけである。しかしながら、選手の身体に直接的に影響を与える「闘争的スポーツ」と、直接的には影響を与えることができない「競争的スポーツ」では*2、許容できる範囲も変わってくるかもしれないし、その観点からドーピングを禁止するための議論を行う余地は十分にあるだろう。ここまでが①についてである。

ドーピングは競技の公平性を損なう

次に、②について考えてみよう。ドーピングは、選手が競技を行う際の公平性を損なうため、禁止されるべきである、というものだ。一方だけがドーピングをするのはズルい!ということである。しかし、それは片方がドーピングをしているから不均衡が生まれるのであって、すべての選手が個人の判断において適量のドーピングを行うのであれば、フェアになるのではないか。これに対しては、経済的な格差による不均衡が生まれてしまうという反論があるかもしれない。確かにそうだろう。

しかしながら、ここにきて我々はスポーツ競技というものがどういったものであるかをもう一度理解し直さなければならない。そもそもスポーツというものは公平ではないことを思い出すべきなのである。例えば、生まれながらに身長などは個々人によって異なるし、経済的な状況などもまったく違うのである。ノルディックスキーの名選手であったイーロ・マンチランタは、並外れた持久力の持ち主であったが、彼の赤血球の量は平均より40〜50%も多かった。しかし、これは遺伝的変異のせいであり、生まれながらに彼に備わった特性であった。つまり、生まれながらにドーピングをしているような身体を持っていたということである。また、経済的な格差によって練習環境や用具などにも大きな格差が生まれていることは周知のことである。しかし、これらについて、私たちは特に問題だとは考えていないだろう。むしろ、劣悪な環境だからこそ、サッカー選手としてのハングリー精神が養われるなどという意見もある。元来的に身体的な格差が存在するのであって、ドーピングは公平性を損なうのではなく、むしろドーピングを行うことによって身体的な条件をより同じにすることも可能にするかもしれないわけである。

しかし、あるカテゴリーに出場するためには、一定のテストステロン値を保たないといけないという規定があったりもする。そのために、生来的にテストステロン値が高かったり、低かったりすることで出場の可否が判断されたり、性自認による問題が生まれたりもするのである*3。結局、すべてを同じ条件にして、平等に競技を行うことはもはや幻想なのである。「公平」というのは、大会主催者の人為的な線引き(特定の基準が同数値にあること)によって、同じカテゴリーに入れられているに過ぎないのだ。

ドーピングを行うと「自然」な人間ではなくなる?

ドーピングは「不自然」であろうか、「人工的」であろうか。しかし、それももはや議論の対象とはなり得ない。アスリートはそもそも人工的につくられるのであって、自然に生まれるわけではないのである。広義の意味では、スポーツにおける運動能力の大部分は「人工的」な要素で成り立っている。個人に合わせた食事と栄養管理。競技に使うシューズやユニフォームから、棒高跳びのような専門的な器具などもある。精神的、心理的なトレーニング手法。コーチングとスキル開発。食事にだけ注目しても許可できるものとできないものに明確な線引きを与えることは難しいのである。ビタミン剤とプロテインをいくら摂ってもよく、パラセタモール(アセトアミノフェン)は痛み止めに使って良いとされている*4。これらのことから考えてもアスリートは「人工的」につくられていると言っていいだろう。しかし、それでもドーピングはダメだと指摘してみよう。反対である、と。なぜなら、ドーピングはスポーツそれ自体の本質を壊すからである、と。スポーツは人間による「美徳」への実践だからである、と。さて、それが指し示すものはどんなものなのだろうか。

スポーツの本質は「美徳」への実践にある

「美徳」とは、マイケル・J・サンデルが提唱した概念であり、ここでのスポーツにおける「美徳」としては、「人間が生まれながらにして与えられた能力や資質の限界を受容し、そのなかでより良い成績をめざす、能力や資質を最大限にまで開花させること」である。この「美徳」を用いて考えると、ドーピングは我々が生まれながらにして受容した能力や資質を正しくない方法で強化させる、そのことにおいて問題なのであると言うことができるだろう。上の章にあったものは正当な範囲に収まるものであるだろうが、それを超えるドーピングはスポーツの「美徳」に反するのだ(しかし、この線引きが難しいのは言うまでもない)。

MLBで活躍する大谷翔平を例に考えてみよう。リーグの最優秀選手になったり、ホームラン王になったりしたその偉業が、実はドーピングによって成し遂げられていた場合、我々はそれを賞賛できるだろうか。仮に、健康上の副作用は全くなく、すべての選手が公平にドーピングを施していると言われても、真に称賛するべく対象として、そのアスリートを認識することは困難になるのではないかと思う。なぜなら、「人間が生まれながらにして与えられた能力や資質の限界を受容し、そのなかでより良い成績をめざす、能力や資質を最大限にまで開花させること」をドーピングによって阻害したからである。ドーピングに際して憂慮すべきなのは、まさにこの「美徳」に関するものであるのかもしれない。

しかし、そんなことは綺麗事だ。と反論したい気持ちが湧き上がってくる人もいるだろう。生まれながらに与えられた能力が素晴らしいものであったのならば、それは競技スポーツを行う上でポジティヴなことであるし、それはそれはとても楽しいことであるだろうけれど、誰もが恵まれた資質を備えているわけではないし、誰もが競争で勝利できるわけではないのである。また、先述したように、そもそもアスリートというものは決して「与えられた能力や資質そのまま」という「自然」な存在なのではなく、「アスリート」という「人工」的につくられた存在であることを認識しておかなければならないが、生まれながらに与えられた延長線上における自分の能力で最大限の成績を目指す「美徳」概念はひとつの重要な要素となり得るように思う。

ここで注意が必要なのは、「美徳」を「努力」と混同しないことである。厳しい練習を繰り返し、自己を鍛錬することは称賛される。しかしながら、スポーツにおいて「卓越性」*5が要点であるのに対して、「努力」は要点ではないことを忘れてはならない。

努力と天賦の才

我々は、努力で何かを成し遂げる、いわゆる雑草魂とも言われるような選手のことを称賛する。一方で、優れたアスリートであった両親の遺伝子を受け継いだサラブレッドで、生まれながらにして才能を手にしている卓越した選手のことも称賛するのである。『完全な人間を目指さなくてもよい理由ー遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』第二章における思考実験を参考に、スポーツの本質とは何かを考えてみよう。

スポーツにおける卓越した身体運動は、部分的には自然な才能や天賦の才の発揮という側面があるわけなのだけれど、これは両親の遺伝子や自然発生(偶然)によって獲得したものであって、選手自身が成し遂げたことではない。テレビの特集では、いかに困難な状況があって、いかに挫折を乗り越えて、いかに厳しい練習を耐え抜いてきたのかなどがフィーチャーされ、我々(視聴者)は「努力」によるストーリーがその卓越性を生み出したのだと納得したい側面がある。しかし、スポーツにおける卓越性のほとんどは、天賦の才によるところが多いことは認めなければならないだろう。大谷翔平は、リオネル・メッシは、そして、多くのプロスポーツ選手は努力だけでは成り立たないのであるし、「努力」したから称賛されているのではない。素晴らしい記録を出した「卓越性」によって称賛されているのである。

もし努力がスポーツにおける要件であり、最高の理想であるのならば、練習や弛みない鍛錬をすり抜けてしまうことにおいて、ドーピングは罪になるだろう。しかしながら、努力がすべてではないのである。スポーツにおけるドーピングの問題は、自然な才能の涵養・発揮を尊ぶ人間らしい活動としてのスポーツの競争を、堕落させてしまうことにあるのである。「卓越性」を持たぬ者が、持つ者に対して挑むことで、競争が生まれる。そして、ときたま勝つこともある。この構造が瓦解されないことが重要なのである。ドーピングはそれを壊し得る可能性があることにおいて、否定されなければならないのだ。

故意か過失か

これまでの哲学的な内容を踏まえたうえで、現実のアンチ・ドーピング活動がどのようになっているのかをみていこう。ここまできての問いになって申し訳ないのだけれど(むしろここまできてようやく問うことが大切かもしれないけれど)、ドーピングについて、どのような認識をもっているだろうか。筋肉がムキムキになったり(テストステロンによる筋組織の増大)、疲れない身体を手に入れたり(血液ドーピングによる赤血球の増加)することを考えている人が多いだろう。また、薬物を使うということにおいて、著しく健康を害したり倫理的に悪い行為として認識していることが多いように思う。もちろん、究極的にドーピングを行えば確かにそのような効果を及ぼし得ることもあるというのは先述のとおりである。しかし、ドーピング行為の大部分はそうではない。「世論が考えるドーピングの定義と、WADA(世界アンチ・ドーピング機構)の採択する定義とは異なっている。この規定が定めるドーピングの範囲は、世論が理解するそれよりもはるかに巨大なのである。例えば、サンプルから薬物が検出されれば、アスリートにパフォーマンス向上の意図があったかどうかにかかわらず、処罰の対象とされてしまう*6」のである。うっかり飲んだ飲み物にWADAが規定した成分が入っていたり、多くの市井の人々が服用している市販の風邪薬を飲んだら、実はドーピングにおける禁止薬物が入っていたりなどの“うっかりドーピング”が実際のところ多いのである。あくまで推測の域を出ないのだが、今回のポグバの事案においてもその可能性が高いのではないかと思う。

しかしながら「WADAが採っているのは「無過失責任」の原則、つまりアスリートは尿中または血中の禁止薬物の存在に責任があり、それはこの薬物がどのようにして体内に入ったのかを問わないというもの*7」である。これには多くの代償がある。ドーピングの告発への弁明が難しくなったり、パフォーマンスの向上の意図がなく、また実際、パフォーマンスがそれほど向上していなかったりする場合にも、出場資格の停止、制裁措置などが科されるのである。先に言及した通り、スポーツの本質はその“卓越性”にこそある。そのため、このような軽微なドーピング、つまり、本質性を損なわない(むしろサポートする)程度の行為は許容されるべきであるとの議論もなされるべきだろう。キャリアや収入に対する影響があるにも関わらず、漠然と“クリーン”なスポーツを掲げ、ドーピングを禁止するだけでなく、ドーピングを適切に使用していくことを考える必要もあるだろうというわけである。

イタリアにおけるアンチ・ドーピングの実情

故意なのか、過失であるのか、そこのところが十分に議論、検証されていないうちに、選手はルールを破った不届き者としての烙印を押され、処罰の対象として晒されることになるのである。それほどまでに”クリーン”なスポーツ環境を徹底しようとしているアンチ・ドーピング組織とは何なのであろうか。この章では依田充代、亀山有希『イタリアにおけるアンチ・ドーピング組織と教育』を参考に、NADO(イタリア反ドーピング機構)の活動を概観していこうと思う。今回のエントリーは、あくまでもポール・ポグバの活動禁止に寄せたエントリーであることを私自身が忘れてはならない。

イタリアにおけるアンチ・ドーピング組織の設立は、1996年、CONI(イタリア国内オリンピック)のなかに独自に設置されたアンチ・ドーピング委員会に遡る。そして、①競技者・選手の健康を守ること、②厚生省の中にアンチ・ドーピング委員会を設立すること、③アマチュア選手のためのアンチ・ドーピングに関する事柄などが規定された、2000年の法律公布に伴い、一連のドーピング行為に対する規定が強化され、薬物リストの作成などがより明確化されていくこととなる。その後、ユネスコによって、世界的なレベルでのドーピングに対する問題が提起されるなか、2007年、法律2030号をもってWADA(世界アンチ・ドーピング機構)の規定に則った形でアンチ・ドーピング活動が展開される。WADAは、世界的なアンチ・ドーピング・ムーブメントを促進、調整、モニターする役割として、1999年に設立され、国際オリンピック(IOC)や国際パラリンピックを代表するスポーツ界と、各国政府が50:50の拠出金を負担して、協力・連携体制を取る独立組織となっている*8

そして、現在の体制となるNADOは2016年に設立され、この組織においてもWADAで規定されている基本方針に基づいてアンチ・ドーピング活動が実施されている。というわけであるから、先述の通り、故意過失に関係なく、そのドーピングの成分に依拠して、処分が行われているということである。「しかし、最も重要なのは、アンチ・ドーピングがドーピングの症状のみに対処し、過酷な競争環境に置かれたアスリートが直面するプレッシャーに根差す根本的な原因に目を向けていなかった*9」のである。サッカーはビジネス的にも選手にかかる影響をも考慮しなければならない。単なるスポーツという枠組みを超えていることを認識し、漠然とした「平等」や「スポーツの美徳」を乗り越えた議論を要するのである。

おわりに---ドーピング違反者としてのスティグマ

しかしながら、それでも現行のアンチ・ドーピングを支持するとしたら、それはこの方法以外に他の選択肢がないからだということが考えられるだろう*10。個別具体的に対処する上でかかる膨大なコストや事例を識別することが困難であることが問題であって、アンチ・ドーピングを行うのであれば、疑わしきものは罰するという徹底的な“クリーン”なスポーツを要請しなければならないということである。「しかし、アスリートは、“クリーンなスポーツ”の蜃気楼あるいは幻想を追求するために、大きな代償を払っている」のである。

ポグバのドーピングが故意なのか、過失であるのかはまだ判然としていないし、処分の内容も決まっていない。まだ罰せられていないにも関わらず、彼は選手として競技に出場することを暫定的に禁じられており、また、ドーピング違反者としてのスティグマを貼られている。もう一度言おう。まだ、判決は出ていないのである。しかしながら、ドーピングと診断された後、それを異議申し立てすることは困難である。検査間違いや第三者による悪意の巻き添え被害などもある。仮に、今後の審判によって、ポグバが無罪であることが証明されたとしても、ドーピング違反をした「かもしれない」ことだけ記憶している人たちによって流布され、彼に貼り付けられたスティグマは消え去ることはないだろう。既にメディアによって、センセーショナルな報じられ方がされており、人々の頭に刷り込まれてしまっているのである。

「制裁は必要だが、最悪な違反者と、違反を助長する者を主な対象とすべきである。検査で陽性になったアスリートには、迅速に結果の出る異議申し立ての機会が認められるべきである。理想的には一般に発表される前が望ましい。陽性反応が故意ではないという強力なエビデンスをアスリートが提供できれば、制裁を緩和する必要がある。検体における違反薬物の量を考慮し、競技結果に関して明確なメリットがなければ、違反も制裁も取り消すべき*11」であろう。

過剰なドーピングはアスリートの「卓越性」を壊す恐れがある。しかし、それに影響しない軽度な場合やドーピングが行われた時期などについても考慮しなければならない。今回の報道だけによって、彼の卓越性を否定することだけはあってはならないだろうし、ユベンティーニはそのことを忘れてはならない(心配することでもないだろうけれど)。「アンチ・ドーピングの歴史は、従来型の権威主義的モデルによる結果は過酷で、限られた成功しか得られないことを示している。アスリートに関わってもらい、その意見に耳を傾けることができるなら、アンチ・ドーピングの未来は、もっと違う形------より民主的で、人間的で、尊厳を大切にする形になりうる*12」だろう。まずは、判決を待たねばならないため、判決が確定した後に、追記することとしたい。またサッカーをプレイするポグバの姿を見れること、それだけを願っている。f:id:nayo422:20231119230958j:image

*1:ドーピング不正に関するものとは異なる話であるが、これからまだまだヨーロッパでの活躍が期待されていたカリドゥ・クリバリがサウジアラビアリーグへ移籍したときに、「家族が良い生活をするのを助けられる」と言及して、金銭面の問題は無視できないものであると認めたことなどからも、「カネ」の問題は捨象することのできないものであることは周知のことである。この「生まれ」によることなどからも、そもそも公平性は損なわれているのである

*2:河内一馬『競争闘争理論』

*3:ドーピングはなぜダメなのか? 小林利明|コラム | 骨董通り法律事務所 For the Arts

*4:エイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』80頁

*5:近年のサッカーは、過密日程による疲労や怪我によって、「卓越性」が損なわれているように思えてならない。私たちは、消耗された選手から絞り出されるようにして出力されるパフォーマンスに感動する場合はあっても、高次元を見たときの興奮は得られない。選手の健康や市場に出回っている金額、給料など考えなければならないことは多くあるが、より高次元の卓越した瞬間を目の当たりにする機会を手放しているのは事実だろう。デ・ブライネが怪我によって長期離脱を強いられていることによる観客の損失は計り知れない

*6:同上124頁

*7:同上128頁

*8:世界の連携|日本アンチ・ドーピング機構 | Japan Anti-Doping Agency (JADA)

*9:エイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』202頁

*10:同上228-229頁

*11:同上247-248頁

*12:同上252頁