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佐倉準『湯神くんには友達がいない』

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野球部のピッチャーで勉強も完璧な湯神くんは、ほとんどのことをひとりで完結させることができる。基本的にイヤフォンをして大好きな落語を聴いているために他人と話そうとしないし、野球にしてもチームとして勝つというよりは自分の目標をいかに達成するかということにフォーカスされている。余計なことをしている暇がないので、自分の世界に没頭することが何よりも優先されるのだ。なので、湯神くんには友達がいない。というか、友達は必要ない。時間の無駄なのだ。そんな考えであるためにクラスメイトと関わろうとしないし、クラスメイトも湯神を変なやつ認定して近づこうとしない。湯神はクラスから、あまつさえ学校からも浮いているのである。そんなある日、隣の席に転校生がやってくる。名前は、綿貫ちひろ。転勤族である彼女は、幼い頃から転校を繰り返していて、友達といえるほどの親密な関係を築けたことがない(築けたとしてもすぐに転校になってしまう)。つまり、ちひろもまた友達がいないのである。しかし、ちひろは友達が必要ないとはもちろん考えていないのであって、なんとかこの現状を打破できないかと考えている。でも、友達を作るためにどのようにして接点をつくればいいのかわからないし、隣の席にはこんな変なやつがいるし……。

〈自律と自己肯定〉

上記は『湯神くんには友達がいない』序盤の簡単なまとめなのだけど、湯神くんは他の誰でもない自分の戒律(ルール)に従って生きている、とても自律的な人間なのだ。他者からの評価を必要としないし、助けてもらうこともない*1。自分の決めた目標を、自分の決めた方法で達成する。そのことに喜びを見出すし、それは80話(最終話のひとつ前)における「自分を大切にしてください」というセリフにも緩やかにつながっていく。しかし、そのセリフのあとに「じゃないと他人も大切にできない」というセリフが続くのであって、自分以外の他者がまったくどうなってもいいとは考えていないのも重要な点だ。湯神くんが、人間が生きることの滑稽さや美しさを描く落語という芸術を愛することからわかるように、人間が嫌いというわけではない。むしろ人間が大好きなのだ。野球(ピッチャー)であれば、たくさんの仲間たちに囲まれているのにも関わらず、ひとりで戦わなければならないという状況を好んでいるのだし、落語においても、聴いてくれる人がいて初めて完成するものだから好きなのだと、ちひろに気付かされるのであった(64話)。そして、なにより最終話において人類のために友達を探そうとするのである。人間はひとりだけでは存在できない。相手がいてはじめて個人として存在できることを湯神くんは理解しているのである。

〈湯神くんは利己的か?〉

湯神くんは他者という存在の重要性を理解している。しかし、利他的なのだろうか?と考えると、そんなことは確実にない、と言い切れるだろう。かといって、利己的なのだろうか?と考えてみても、そんなこともないのだ。デジタルゲームにおける人工知能研究に取り組んでいる三宅陽一郎は、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』*2にて、こんなことを言っている。

自分というのは、他者を巻き込んで形成されていて、そういう意味で他者は自分の素材でもある。こういった次元においては、利己的というのと利他的というのは、まあそんなに変わらないんだと。他者の幸福を考えるときには---すごく荒っぽい議論で申し訳ないんですけど---自分の幸福を得る、と。

『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』未来の人類研究センター編 60頁

そう、湯神くんについても利己的に行動しながらも、それが利他的にもなっていると言えるのではないだろうか。例えば、藤沢梨緒を助けたのも、体育祭のバックボード制作に困っている彼女を助けてあげようとしたのではなく、自分が好きな作業だったから、大工仕事にハマっていて自分がそれをやりたかったから、という自分本位な思考の結果だ。しかし、利己的に自分の幸福を充足させることは、利他的にも作用し得る可能性がある。もちろん利己的に終始してしまう可能性もあるけれど、利己と利他は相互作用しているのであって、利他的に考えようとするのであれば、利己的にも考えなければならないし、また、ひたすらに利己的に行為し続けることもできない。なぜなら、先述しているように、個人は他者の存在があってはじめて成り立つ。「他者は自分の素材」であるからだ。

「自分を大切にしてください。じゃないと他人も大切にできない」という湯神くんの台詞においても、利己と利他が緩やかに混ざり合いながら、自分や他者を構築していることを伝えている。人間は利他的であり、利己的である。何気なく他者を助けてしまったり、傷つけてしまったり、反対に思いがけず自分が助けられたり、傷ついたりする。そうやって社会はできている。友達は必要ない。でも、友達ではない人々が集まって、教室のクラスを、そして、この世界をつくっている。『湯神くんには友達がいない』という作品を読んでいると、そんなことに改めて気づかせてくれるのだ。

〈ええっ、おれってこんななの?〉

十代目 柳家小三治の自伝『どこからお話ししましょうか』*3 における第8章「うまくやってどうする?」から引用してみたい。湯神くんの好きな落語家さんは平楽さんだけど、今回は十代目 柳家小三治さんの言葉をお借りする。

うまくやろうとしないこと。それが、難しい。とても難しい。じゃあ、下手なまんまでいいのかっていうと、そうじゃないんだよねえ(笑)。心を理解しなきゃ、人の心を理解しなきゃ。人が生きるっていうのはどういうことか。それをどうやって理解していくかっていうと、音楽を聞き、絵を見、小説を読み、人の話を聞き、芝居を見、もちろん映画も見て。つまり、自分以外のものから発見していく。なにを発見していくかっていうと、自分を発見していくんですよね。そういう鏡に照らし合わせて、ええっ、おれってこんななの?って。その映す鏡は他人じゃない。自分の中にある。自分の鏡だ。いつかそういう鏡を持てる自分になれるだろうか。いや、そんな毎日ですから、これでいいんじゃないかって思える日が来たら、どんなに幸せかと思ったりします。

柳家小三治『どこからお話ししましょうか』109頁

落語の研究をしたり、文化祭で落語を実践したりして、日々落語と向き合っている湯神くんも、自分の鏡を通して、「ええっ、おれってこんななの?」を発見しているのではないだろうか。

そもそも、『湯神くんには友達がいない』という作品自体、「ええっ、おれってこんななの?」を発見する物語である。門田、藤沢梨緒、百瀬、八重樫、天城高校野球部の林山など、湯神くんというきっかけはあるものの、みんな自己の鏡に反射させて、「ええっ、おれってこんななの?」を発見している。湯神くんにおいても、他人をよく見ていることを示唆するシーンが多々描かれているし、ちひろの耳たぶを触ってしまって動揺したりするシーンなどはその好例だろう。

「ええっ、おれってこんななの?」は、自分という存在を、そして自律を揺らがし、新たな「わたし」を立ちあがらせる。でも、「そんな自分も大切にしてください。じゃないと他人も大切にできない」からと言う湯神くん。地球が誕生して46億年、人類は人類以外の知的生命体と巡り会えていないことから、この広大な宇宙で人類はひとりぼっちなのだ(だから宇宙飛行士をめざす!)と主張するのも、どうしても学校という世界だけに閉じ込められがちな学生という時代において、「ここだけがすべてじゃない」という構造的な領域にまで視野を広げ、自己を肯定するためのメッセージのようにも思えるのだ。

〈コミュニケーションと注意資源〉

ここまで書いてきたように、本作は実に濃密なコミュニケーションの物語なのである。そして、コミュニケーションと野球というモチーフによって、『おおきく振りかぶって』という作品を想起してしまうのは私だけだろうか。『おお振り』においては、手を繋ぐという運動が親密なコミュニケーションを形作っていた。では、『湯神くん』においては、何になるのだろう。ディスコミュニケーションを中心に描いた本作においても、湯神くんとちひろの間には、確かなコミュニケーションがあったことを読者は知っている。ちひろは湯神くんのことを友達だと思っているし、湯神くんも(友達ではないにしても)ちひろに心を許している。ふたりの間には何があるのだろう。

ふたりのコミュニケーションにおけるベストシーンでもある、第72話「湯神くんは勝負をかける」から取り上げてみたい。夏の甲子園出場をかけた地区大会準決勝だ。

7回に入り、疲れが見え始める湯神くんは、注意資源が不足し、集中力も切れてくるのだった。「注意資源」とは、人が何かに意識を向けるときに、脳が使うエネルギーのこと。湯神くんによると、朝起きたマックス時から、注意を払った分だけだんだんと消費されてしまうらしい(寝たら回復)。注意資源を使い過ぎると自分のすべてのパフォーマンスが低下してしまうのだという。リソースは限られているのだ。だから、湯神くんは自らの障壁となりそうなものを事前にノートに書き出して、そういったものから干渉されないようにしている。また、湯神くんは寿限無のルーティンをつくって、集中力を高め、余計な注意資源を消費しないようにしていたのだけれど、強敵スラッガー南田との戦いに疲弊し、湯神くんは注意散漫になってくる。しかしそんなとき、ちひろの声は届くのだった。

f:id:nayo422:20240423152942j:image第72話

いちばん集中しなければならない(余計な注意資源を消費してはならない)はずの準決勝のマウンドにおいて、湯神くんはちひろの声に注意を向けるのである。

湯神くん集中だよー。寿限無

なぜそんな状況に直面している湯神くんに、ちひろの声が届いたのだろう。それは特別に注意を向けていなくても(注意資源を消費しなくても)、声が届くから。そう、つまり、ちひろの声が届くということが、まさに日常の一部になっていたからではないだろうか。実際、湯神くんはちひろの声を聞き、「おいしいね このサラダ!」という本当になんでもない、日常の記憶を呼び起こすのである。隣の席にちひろがいて、ぶつぶつと何かを言っている。そんな日々が当たり前になっていた。コミュニケーションとは、相互作用によるやり取りに限られないのだ。呟くように溢した声は、受け取ったつもりがなくとも心の中にじんわりと浸透していたり、遠くのいつの日か思いがけず届いたりする。同じ時間や空間を長期にわたって共有していれば、言葉を介さなくても濃密なコミュニケーションは形成されていく。

ちひろは友達ではないし、ましてや恋人などでもない。でも、隣にいないのは何か変な感じがする。だから、湯神くんは最終話において、ちひろを落語に誘い続ける。隣の席には、ちひろが必要なのだ。

湯神くんには友達がいない

湯神くんには友達がいない。むしろ友達は必要ない。でも、隣にちひろがいてほしい。そんな気がする。落語のチケットを渡して、肩を並べて鑑賞するのはそのためだと断言してしまいたくなる(ただの願望)。それを友達と言うのなら、そうなのかもしれない。しかし、湯神くんにとってはそうではないのだ。湯神くんは、利己的に、また利他的に、人類に友達をつくってあげるために宇宙飛行士になろうとしている。

ボイジャーは太陽系外に飛び出した今も
秒速10何キロだっけ
ずっと旅を続けてる

BUMP OF CHICKEN『話がしたいよ』

アメリカ航空宇宙局(NASA) によって太陽系の外惑星および太陽系外の探査計画として1977年に打ち上げられた「ボイジャー探査機」は、2012年に太陽圏を脱出し、地球より遥か彼方を旅している(2020年時点でおよそ222億kmも遠くにいるのだという*4)。この探査機にはゴールデンレコードといわれる、地球の生命や文化の存在を地球外知的生命体に伝えるための音や画像が収められている。地球外知的生命体や未来の人類がこれを見つけて解読することを期待しているのだという*5。そう、ボイジャー探査機は、人類の友達を探し求めて、遥か彼方を旅しているのだ。

話がしたいよ

湯神くんは、ボイジャー探査機である。ひとり、遠い未来へ向けて旅を続けている。地球環境は温暖化などからも明らかなように永続ではない。100年、1000年先の人類を考えるならば、宇宙へ視野を広げていくことは必要になる。湯神くんはまっすぐに進んでいく。ボイジャー探査機に格納されているゴールデンレコードは、やがて何者かに届くだろう。世界は、宇宙は広がっていく。湯神くんには友達がいない。けれど、わたしも、あなたも、そして、湯神くんも、まだまだ旅の途中なのだ。人と人が出会い、別れていく。そんな当たり前で、あっという間に過ぎ去ってしまうような瞬間の途方もない尊さを『湯神くんには友達がいない』は教えてくれるのである。

われわれは宇宙に向けてメッセージを送りました。銀河には2000億個もの星があり、いくつかの星には生命が住み、宇宙旅行の技術を持った文明も存在するでしょう。もしもそれらの文明の一つがボイジャーを発見し、レコードの内容を理解することができれば、われわれのメッセージを受け取ってくれるでしょう。われわれはいつの日にか、現在直面している課題を解消し、銀河文明の一員となることを期待します。このレコードにはわれわれの希望、われわれの決意、われわれの友好が、広大で畏怖すべき宇宙に向かって示されています。*6

f:id:nayo422:20240423024053j:image第81話(最終話)

*1:湯神における自律の大切さついては、湯神くんの後輩である門田に対する評価にも表れている。湯神くんは門田にカレーパンを買いに行かせるのだけど、その時に門田が嫌な顔をするのがいいのだという。なぜなら、「買いに行け!」と言われてそのまま買いに行ったら他律だからである。でも、嫌な顔をした場合には、命令に不服であることを示した上で自らの意思で買いに行っていることになるからなのだ。おそらく…笑

*2:「利他」について精力的に活動しているのは、伊藤亜紗さんである。『「利他」とは何か?』もぜひ参照されたい

*3:柳家小三治『どこからお話ししましょうか』 - KINOUNOKYOU

*4:『図解でよくわかる核融合エネルギーのきほん』18頁

*5:Wikipediaボイジャー計画」

*6:1977年6月16日、ジミー・カーター大統領による公式コメント