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三笘薫の美しいドリブルに寄せて

f:id:nayo422:20230130041302j:image三笘薫が世界最高峰のサッカーリーグであるイングランドプレミアリーグでセンセーショナルなムーヴメントを巻き起こしている。小学生から高校生までを川崎フロンターレのユースで過ごし、トップ昇格を打診されていたものの「プロで通用する自信が持てない」からと大学進学を選んだ青年は、その大学で執筆した論文に裏打ちされたドリブル理論によって対峙するSBを撹乱し*1、スタジアムを、そして世界中を魅了している。英メディアは三笘の論文で特集を組み、予測不可能なドリブルは少年少女の憧れの対象にもなり始めているらしい。FAカップ4回戦、空中で相手を交わしアウトサイドで押し込んだアンビリーバブルなゴール後にはTwitterの世界トレンドで1位にもなり、軽く調べただけでもイギリス、日本、アルゼンチン、エクアドルで1位、アメリカ、カナダ、ガーナ、南アフリカでも2位となるなど、世界中から熱い視線が注がれていることがわかるだろう。このエントリーでは、彼のドリブルが何故そんなにも魅力的なのか、そして、サッカーにおけるドリブルとは何なのか、ということについて考えを巡らせていきたい。

〈間合いとは〉

まず、相手と対峙する上で維持する距離、「間合い」について考えたい。相手に触られない位置にボールを置き、相手の動きを見るため、フェイントや抜き去る動作を行うための重要な空間となるからである。

どこかのタイミングでアタックしてくる選手が多いので、下がっているようでも急に前に出てくるというのは警戒しているので、なるべく細かいタッチで相手が来る前に外せるようには意識してます。スピードに乗りすぎないというのは大事にしてますね、スペースがない時には特に。

先日、『報道ステーション』にて放送された内田篤人との対談で、三笘はこう答えていた。この言及からも相手との距離感、つまり「間合い」を意識していることがわかるだろう。細かなタッチやスピードを上げすぎないことで、相手との「間合い」を保つのだ。しかし、まずもって、「間合い」とは何であろうか。ある辞書によれば、「(空間的な)隔たり」や「(音楽的な調子・拍子の)変化する時間」とあるのだけれど、まずは「(空間的な)隔たり」から考えていこう。諏訪正樹 編『「間合い」とは何か-二人称的身体論』における定義を参考にしたい。そこにおいてはこう定義されている。

自分の間合いを形成するということは、遭遇するものや他者が放つ「エネルギーのようなもの」を感得するだけではなく、自分の身体が放つエネルギーや奥に秘める体感をも感得し、両者をうまく融合するように、場に身体を入れ込む作業であるp24

「エネルギーのようなもの」とは、対戦相手がそこに存在する上での迫力、距離的な圧迫感、襲いかかってくるかもしれないという認知などの“場が内包する全体のエネルギーのこと”を指している。それらの敏感な動きを感じ取りながら、そこに自己の動きを臨機応変に調整していくということが、「間合い」を形成することであるのだ*2。先述した三笘の言及においても、相手の動きを常に警戒しながら、相手と自分の距離感を保つようにエネルギーを調整していることがわかるだろう。そして、相手をドリブルで抜くということは、この「エネルギーの衝突を回避すること」p99と言うことができる。反対に、守備側視点からいえば、相手との「エネルギーの衝突を引き起こすこと」(デュエル)、そして、その勝負に勝つことによって、ボール奪取できるのである。

〈「競争」と「闘争」〉

ここで少し余談を挟むが、サッカーというスポーツをどう認識すべきであるのか、ということを河内一馬『競争闘争理論』における主張を借りて、軽く説明しておきたい。

サッカーとは、「闘争」のスポーツであると主張するのが、河内一馬『競争闘争理論』である。『競争闘争理論』において、「競争」とは「自分の技術を最大限発揮するもので、相手に妨害を加えるなどすることを許されていないもの」であり、「闘争」とは、「相手に何らかの妨害を加えたりして影響を与えるもの」とされている。要するに、「競争」とは「環境が整った状況において技術を最大限に発揮できること」であり、「闘争」とは「相手に影響を与え能力を発揮させないことで自分たちに有利な状況を作り出すこと」である。そして、それに適した思考態度がそれぞれ「競争的思考態度」「闘争的思考態度」である。

サッカーは単に技術的に優れているから勝てるものではなく(このエントリーにおいては1vs1)、相手に影響を与え、もしくは相手の影響を読み取って、そこに適したアクションを行うことで、有利な状況を作り出していく「闘争」のスポーツなのである。このことを念頭に置いておかないと、単に三笘の足が速いから、足元の技術が優れているからということに話が収斂しかねない(もちろんフィジカル的な能力の高さが必要不可欠なのは言うまでもないが)。

〈サッカーのドリブルにおける移動と重心〉

この章では、『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』第3章にある高梨克也『ボールへの到達時間を予測する-サッカーの間合い』にある論を参考に考えていきたい。

まず、サッカーのドリブルと人間の身体性における基本的な制約について示していこう。第一に、サッカーにおける制約は2本の足を使って、「身体の移動」と「ボールの操作」を同時に行わなければならないというものである。ボールを触っている足は宙に浮いており、もうひとつの足は地面に接していなければならない。そして、この地面に接している足に重心が乗ることになる。第二に、人間の身体性における制約とは、「移動の際に通常、左右の足が交互に踏み出される」というものであり、このときに踏み出していない方の足が軸足となり、そこに重心が乗ることになる。

つまり、人間の移動とは、この「重心の移動」であるとも言うことができるのであって、守備側からの視点からいえば、右足に一度重心が乗ってしまえば、次の動作に切り替えるためには、左足に重心を移動させなければならないのである。そして、この“重心移動の時間”が“ドリブルで抜き去る時間”を生み出すことになるのである。三笘薫もインタビューのおいて、「相手の重心をずらすことは意識しています。敵の体を動かすことができれば、勝ちですから」*3と答えている。

「相手を先に動かす」ことができれば、その相手はもはや「動けない瞬間」に入ることになり、攻撃者からすれば、その逆を取ればいいことになる。しかし、ここで重要なのは、「相手が動けない」ということを感得するのはもちろんのこと、その瞬間に自分が「動ける状態」であることが大切になる*4。そのため、フェイントや相手の重心の移動を見極めるのと同時に、反発ステップとアウトフロント気味のボールタッチを駆使することによって、自らの「重心の移動」をよりスプリントに近い形にすることを三笘は駆使している。そうして加速しやすくし、相手よりも一歩前に入りフェアなタックルをさせないようにしているのである。これらは下記動画を参照されたい。

プレミアリーグでも無双!!日本代表MF三笘薫ドリブル突破の極意が目から鱗【俺の極意】 - YouTube

また、アウトフロント気味にボールタッチをすることの効能として、止まった状態でないときに際してはボールをコントロールしながら、縦に行くのか、内側にカットインするのかという複数の選択肢を保持しつつ相手と対峙できることが挙げられるだろう。

〈絶対速度と対人速度〉

もう少し、速度について考えてみよう。先に、「間合い」について「(空間的な)隔たり」について考えたけれど、この章では「間合い」を「(音楽的な調子・拍子の)変化する時間」に関するものとして、思考してみたい。速度については単に速くなる、加速するだけでは不十分であることを説明している河内一馬と中野崇の対談が興味深い。

【対談】中野崇(スポーツトレーナー / フィジカルコーチ)× 河内一馬(サッカー監督) - YouTube

18:30〜から「絶対速度」と「対人速度」の話をされているのだけれど、「絶対速度」とは、50メートル走を何秒で走れるかというような数値化できるものとし、「対人速度」とは、相手が感じるスピードのことであり、どれだけ急に速くなったか感じされられるか、減速時には他に何か動作を起こすのではないかと感じさせられるかというもの、であると説明している。そして、サッカーにおいては「絶対速度」ではなく「対人速度」が重要になる、と。

つまり、「絶対速度」によって直線的に時間を形作るのではなく、「対人速度」によって緩急をつくり、「(時間的な)間合い」を生み出す必要があるということだ。そして、相対的な時間の創出によって、自分は先の予期していた未来の時間に移行し、守備者が予期していた未来を過去のものとすることで守備者には遅れを取らせ、過去の時間のなかで過ごさせるのである。守備者は攻撃者がどのように動いてくるのかとある程度、予期しながら対峙しているのであり、そこに変化を加えることが大切になる。相手に「不意打ち」を喰らわせる「(時間的な)間合い」を用いて、重心移動を見極めるのと同時に、時間的にも「間」を描いてゆくのである。「予期されていたのと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は、不意を打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、主体は迷い、混乱し、ためらう。この迷いが二つの観念のあいだでの迷いとちがって強い抵抗感を伴うのは、それが身体的な分裂を伴うものだからである。」*5

〈エキスパートの「自動性」〉

前章にて伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』からいくつか引用したが、今度は、彼女の新著『体はゆく-できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』を使って、三笘薫のドリブルについて考えてみよう。第2章「あとは体が解いてくれる-桑田のピッチングフォーム解析」には大変興味深いことが記述されているのだ。

類い稀な制球力で打者を打ちとる桑田の素晴らしいピッチングには何か重要な秘密があるのではないか、それを科学的に解明すればあの投げ方を習得できるかもしれない、と柏野牧夫(NTTコミュニケーション科学基礎研究所柏野多様脳特別研究室長・NTTフェロー)は、10個のハイスピードカメラで桑田を環状に囲み、撮影した。ところが、撮影された映像を解析してみると、明らかになったのはすべての投げ方が異なるということであって、こう投げればうまくいくといった唯一解が導き出されるわけではなかったのである。最も投げ方に差異があるときには最大で14センチもリリースポイントが離れていたというのが興味深い。そして、柏野は、この柔軟性にこそ、桑田のピッチングの強さがあるのではないか、と指摘するのだ。ある型にハマった投げ方だけを習得してしまえば、それを使って勝てているときには良いけれど、空間、場所、自らの身体的コンディションが異なった場合には、その能力を発揮できなくなってしまう。柏野は、これを「土地勘」という言葉で表現する。「唯一絶対の正解という「線」ではなく、土地という「面」で把握しておくこと。それが重要になるのは、環境の変動に加えて、自分の体調の変動に対応できるようにするためだ」p76。いつもの決まった道(線)だけを覚えるのではなく、そこから外れてしまっても軌道修正できるように、土地(面)として把握する必要がある、と。

運動をするとき、自分の身体を意識して直接コントロールする方法と、身体ではなく環境や道具に意識を向ける方法がある。前者を「インターナルフォーカス」、後者を「アウターナルフォーカス」と言う。三笘薫はボールの触る位置に拘るなどしているが、「間合い」や相手の「重心」について言及していることから「アウターナルフォーカス」的な思考方法であると考えられる。また、そもそもサッカーが「闘争」のスポーツであることを考慮すれば、「アウターナルフォーカス」が大切な、そして必要不可欠な思考法になることは言うまでもない。

そして、アウターナルフォーカス的な思考法を用いたうえで、三笘はほとんど自動的に自らの身体に作用させているのではないかというのが、この章の論点である。

「エキスパートの自動性」とは、アメリカの哲学者、ヒューバート・ドレイファスが定義した概念であり、①ビギナー→②中級者→③上級者→④プロ→⑤エキスパートという人間の技能獲得の最終段階のことである。そして、このエキスパートの段階においては、ある種の自動性が含まれているというのだ。

エキスパートになると、経験に裏打ちされた円熟した理解力に基づいて、何をするべきかが判断できるようになる。刻々と変わる状況に対処することに没頭し、問題を客観的に見て解決しようなどとは思わないし、先の心配をしたり計画を立てたりもしない。人間は歩いたり、しゃべったり、車を運転する時に、意識的に考え抜いて判断をくだしたりはしないのが普通である。エキスパートの段階では、技能のからだの一部のように身について、ほとんど意識的にのぼらなくなる。エキスパートのドライバーは車と一体になり、車を動かすというより車と自分が一緒に動いているように感じる。ヨチヨチ歩きの子が意識的にからだを前へ運んでいくのに対して、大人が何の意識的努力もせずに歩くのと同じことだ。パイロットの話によると、ビギナーの頃は飛行機を飛ばせているという感覚があったが、ベテランになると飛行機が自分で飛んでいくように感じるという*6

さらに、ドレイファスは、合理性と非合理性のあいだには「没合理性」とでも言うべき広大な領域が広がっていると指摘する。ドリブルのエキスパートである三笘薫においても、このある種の自動性が発揮されていることは改めて言うまでもないと思うのだけれど、場が放つエネルギーを感得しながら、場に身体を入れ込む作業であることは先述した通りであり、この自由意志を排したような、中動態的な概念がエキスパートの自動性なのである。この本能的な身体運動をこそ、我々は魅力的に感じるのである。

〈中動態的なドリブル〉

三笘のドリブルを見ていればわかる。彼は、ディフェンスが2枚以上になった時に、無理にドリブルで仕掛けないということである。この瞬間、彼が自らの能動性だけを頼りに、ドリブルを行なっていないことがわかる。そして、一定の間合いがあること、相手の脚がどのような状態になっているかが重要であることから、相手の受動性に依拠して、三笘のドリブルは作動することになる。しかし、やはりドリブルは三笘の意思によって引き起こされるものであるから、相手の行為が三笘のドリブルを発動させるのでもない。であるから、三笘はドリブルという運動をその環境に馴染ませるようにして作用させているということが言えるのではないか、と思うのだ。そう、まさしく中動態的である。サーファーが波に乗るかのようにして、三笘が相手を乗りこなすとき、我々はたまらなく魅了させられるのではないか。

〈三笘薫のドリブルの美しさ〉

ここまで、三笘薫のドリブルの強さを解き明かそうと考察を試みたのだけれど、つまるところこの2つに収斂されるのだと思う。「間合いを創出し、相手と対峙できること(相手を見てドリブルができる)」、「複数の選択肢を保持しながらドリブルできること(相手にとって予測不可能なこと)」の2つである。そして、それらがよりシンプルに遂行されていること、自動性や中動態的な身体運動を伴っていることが起因して、美しさを形作っているのだろうと考えられる。余計なことをしないシンプルさにこそ美しさは宿るのである。また、彼の手足の長さなど、身体的な特性が切り返しの際の踏み込みなどを美しく印象づけているようにも思えるのであって、筋肉などの身体構造についても言及が必要になるだろうと考えられるのだけれど、それらのことは私自身無知であるので勉強が求められるところでしょう。

しかしながら結局のところ、三笘薫がサッカーというスポーツに愛されているから、彼のドリブルは魅力的なのであるというのが最も明快な結論になり得るだろうとも思うのである。

スポーツに愛されていない人が、スポーツが好きだからというだけの理由で必死に演じてみせる身振りは、ほとんどの場合、目を蔽わんばかりに醜い。アマチュアであることも、それを許容する条件とは到底いえないでしょう。その醜さを何とか克服しようと必死に練習をくりかえせば、誰でも人並みの技術ぐらいは身につけることができる。だが、それでもスポーツに愛された人の演じる身振りの美しさには永遠にかなわないのです。[・・・]理にかなった練習によってすぐれた選手が誕生しはする。だが、それは、意志の問題でもなければ、精神の問題でもありません。スポーツに愛されていながらもそのことに無自覚だった者が、何かのきっかけでその愛に目覚め、あるとき優れたスポーツ選手へと「化ける」だけなのです。

蓮見重彦『齟齬の誘惑』219-220頁

まだ三笘薫はプレミアリーグ参戦初年度であって、対策が進む2年目が勝負になるであろうし、今期も対戦相手による有効な対策が少しずつ行われていくだろうと思われる。そのなかでどのように三笘薫が進化していくのか、ドリブルが変化していくのか、楽しみに見ていきたい。三笘すごい。

*1:とくにアーノルドは何度も嫌な思いをさせられているだろう…

*2:河野哲也『間合い 生態学現象学の探求』にて紹介されている、西村秀樹『武術の身体論』において剣道の間合いについて言及されているが、これもまさに自己を場に調整していくことであると説明している。「剣道が上達するとは、一方的、自分勝手に技を出すのではなく(そうすれば、高段者であれば、すぐに自分の打突のタイミングを読まれてしまう)、相手との「同調」や「合わせ」といった関係の中で技を繰り出すようになることであると指摘する

*3:Number web「なぜ、自分のドリブルは抜けるのか」意識高すぎルーキー・三笘薫が筑波大で書いた卒業論文 https://number.bunshun.jp/articles/-/845385?page=1

*4:「《disposition》という語は非常に注目すべきである。それが同時に意味するのは、秩序と準備、反応のモードのア・プリアリな決定ーー感性の状態の見通しである(……)。三笘はルックアップすることで、目線によるフェDisposeとは、しかじかの向きにしかじかの強さで反応するように整えられていることである」。すなわちこの語は、「準備」することと「秩序」ないし「整えられていること」を同時に意味し、さらにそれが「使用しうる」という状態に通じる、ということを示しているのである。すべての反応の可能性が常に使えるようになっているとは限らない。予期とは、予期される出来事に向けて反応する可能性を準備し、それを「使えるようにしておくこと」であり、つまりは「感性のある状態にしておくこと」なのである。伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』p161

*5:伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』p156-157

*6:ヒューバート・L・ドレイファス、スチュアート・E・ドレイファス『純粋人工知能批判』(椋田直子 訳)75頁