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ルカ・グァダニーノ『ボーンズ アンド オール』

f:id:nayo422:20230504180018j:image「俺のことを食べて欲しい…」とリー(ティモシー・シャラメ )がマレン(テイラー・ラッセル)に死の間際で囁くとき、それが単なる人肉嗜食を越えた情愛のモチーフになっていることを感じ取るのが難しくないのは、死者を喰らうことによって生の回復を目指したというカニバリズムの起源に根ざしているからに他ならないだろう。このモチーフによって、実に純粋なラブドラマとなり得ているのだ。

食べることはその対象を自らの一部とすることである。そして、その対象はその身体の一部となって引き継がれる。ラストシーン、2人を収めたショットはまさにイデア的な空間で2人が一体となっていることを示すものであるだろう。風景の絵画で始まり、風景の中に溶け込んだ彼らの姿で終わるのは、現実空間ではない場所で彼らの生が存続していることを示唆するものである。

「食べちゃいたいほどに好き」とは、よく用いられる言い回しであるが、リーが自らの身体を差し出すこと、その譲渡の運動にこそ情愛のモチーフが宿るのである。であるから、自らの身体を差し出すことが目的ではなかったサリーに情愛はなく、単なる欲望による行為に留まるだけである。しかし、リーは自らの死を避けられない事実として認識したからこそ、身体を差し出す決意をできたのではないのか、ということが疑念として浮上するだろうけれど、それも確かにそうなのだと思う。けれど、そのときになってマレンの身体のなかで生きたいと思うことができたということが2人の関係をより強固にするのである。

確かにここにはルッキズム的な価値基準があるだろう。しかし、単なる市井の美醜ということではなく、それは食べものに対して好みがあるように趣味嗜好による価値基準が存在するのである。ルッキズム的な部分においてうしろめたさがあるように、同族を隠れて喰わねばならない彼らには、食べることのうしろめたさが存在し得るのである(これは我々が当然のように“食べている”ことへの問題提起もあるだろう)。なぜ同族を喰らうことに対しだけ、このままならなさは生まれるのか。本作において、性欲(性愛)と食欲の境界が混濁するときに、または、その境界が分かち難く存在することを知るとき、突きつけられる承認の不確実性も明らかになるのである。

私たちが異なる他者を承認しようとするとき、それは私たちと同じであるという延長線上においてしか承認しきれないのである。カニバリズムをその本質性にもつ他者を我々が受け入れることができるかというと、そのままの生活環境においては難しい。であるから、構造の部分においてその対処が求められるのであるが、本質性においてもはやまったく異なる我々はその存在を認知し得る、対話し得る存在だとは思うに至らないのである。我々は常に誰かを外部に追いやっている。その認識を持たねばならないが、その外部が存在することこそがラストシーンのシークエンスをより魅力的にもするのである。