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木村元彦『コソボ 苦闘する親米国家 -ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う-』

f:id:nayo422:20230627231828j:image単一民族国家であるかのように誤認してしまえる日本という国でこの本を読んでいると、あまりに過酷な分断と対立の連続に衝撃を受けてしまう。序章の冒頭にあるように、極東アジアとの距離的な遠さ、文化的、宗教的馴染みの薄さもあって、アイデンティティの所在を土地に求めるということの切実さを計り知ることもできないし、エスニシティという概念を本当の意味で理解することは日本人に可能なのかとさえ思えてしまう。しかしながら、ストイコビッチオシムペトロビッチなど日本サッカーにとってユーゴスラビアは縁深い存在でもある。ベストセラー『オシムの言葉』の著者である木村元彦は、丹念な取材を重ね、コソボの独立まで、そしてこれからを描き出している。

コソボは旧ユーゴスラビアにおけるアルバニア人たちにとっては自治州であり、セルビア人にとっては中世より栄えた正教教会がある聖地である。セルビア人にしてみればコソボ独立など到底認められないし、アルバニアとの合併は絶対にあってはならないことであるという。

本書は、セルビアコソボ(多数がアルバニア人)の対立を軸としたルポである。2008年、コソボ独立を契機として、コソボ内におけるセルビア人集落やセルビア正教教会がアルバニア人*1によって襲撃されるなど、民族浄化が起こった。しかし、それは99年のセルビア人によるアルバニア民間人に対する「ラチャク村の虐殺」への報復のようなものとして起こったのであった。が、1980年代には、コソボにおける少数派のセルビア人に対する迫害運動が巻き起こっていたのであり…と遡っていけばどちらを擁護すべきなのかわからないほどに暴力の歴史が積み重ねられている。犯罪者と被害者の立場は目まぐるしく入れ替わり、暴力の連鎖は止まることを知らず、ユーゴは敵か友かを決断することが常に求められてしまう土地であることが描き出されていくのである。

コソボ独立の際、暴力の連鎖を止めるための道がなかったわけではない。非暴力主義で「コソボガンジー」と呼ばれたリーダー、イブラヒム・ルゴバを大統領としての新政府設立(未承認国家)を目指すことも選択肢としてはあった。しかし、コソボはゲリラ活動でセルビア治安部隊との内戦の道を選んだのであって、「ラチャク村の虐殺」はそのなかで引き起こされた悲劇であった。そこで米英独仏伊の連合グループによる調停が提案されるが、セルビアはその調停を拒否。最終的に、「セルビアのミロンシェビッチ大統領によるコソボアルバニア人に対する迫害を止めるため」という大義の下に米軍主導の軍事行動、NATO空爆が展開された。セルビアが調停を拒否したのは、ユーゴにおけるNATO軍の常駐などを含んだアメリカによる付帯条件があったからであり、ストイコビッチは5歳の子どもでも拒否することを支持するだろうと指摘したという。

しかし、今度はアルバニア人によるセルビア人への迫害が引き起こされた。この暴力の連鎖を暴力で止めることができないことは、はなからわかっていたことであろう。また、なにより衝撃的であるのは、3000人以上に及ぶ拉致被害者の存在と臓器密売の事実である。そして、それが臓器密売ビジネスとしてコソボ(KLAコソボ解放軍)以外で少なくとも3つの国の共謀者がいるということ、国際的な重要人物が関わっているということである。コソボ内で少数派となったセルビア人が拉致されたという(p105〜)。

コソボ多民族国家であり、国旗の6つの星はアルバニア人セルビア人、トルコ人、ゴラニ人、ロマ人、ボスニャク人を指し示しているものである。しかし、その中で存在感を発揮するアルバニア人は、コソボアルバニアの合併を望む大アルバニア主義を展開している。アルバニアにルーツを持つスイス代表、ジャカとシャキリは2018年、ロシアW杯で鷲が羽ばたくポーズを手であらわし、扇動的なメッセージを放った(p214〜)。木村元彦はそれを批判し、また日本で報道されたさまざまなコラムに対しても一つひとつ訂正していく。民族と国家。どこにも収斂できない、その難しさのなかで、サッカーを愛する者が悩み、苦しみながら、それでも共にあろうとしている。日本にいるファンが夜中に観るヨーロッパのサッカー、そこには想像をはるかに超える分断と憐憫、そして愛による結びつきがある。ロシアによるウクライナ侵攻があって、サッカー界も大いに揺らいだ。ただただ楽しむだけでいられなくなったサッカーファンにこそ必読の書である。

*1:コソボの9割を占めるアルバニア人は、自分はコソボ人などではなく、アルバニア人だと思っている