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エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』原 正人 訳

f:id:nayo422:20230402030132j:image本作の舞台となる韓国北東部の行政区画・江原道(カンウォンド)に位置する束草(ソクチョ)は、北緯38度線より北側にあり、朝鮮戦争前までは北側の実効支配下にあった土地である。その後、韓国軍の奪還を経て韓国領土となるのだけれど、それは単なる国家による線引きにしかすぎないのであって、その土地には朝鮮戦争時に以北から移り住んだ避難民が定着していたり、「アバイマウル」という集落が形成されていたりするらしい。また、今でも北朝鮮からの脱北者が多く、北朝鮮料理も文化として根付いているようである。山に囲まれ、海に面した自然豊かな土地柄と、軍事的な境界線を隔てているアンバランスな魅力を放っていることによって、韓国有数の観光スポットにもなっているらしい(「翌日、わたしは束草の街に沿うように広がっている砂浜に散歩に出かけた。わたしはこの沿岸が大好きだった。たとえ電気が流れる有刺鉄線が傷のように張り巡らされていたとしても。」p15)。北緯38度線による線引きはあるものの、水面と陸地を別つ境界線から滲み出る波の往来のように、アイデンティティとしての寄る辺なさを自覚させる本作の表紙には汀(みぎわ)が描かれており、この境界線の狭間で佇む人間の心模様が印象づけられている。作者、エリザ・スア・デュサパンもフランスと韓国にルーツを持つスイス人であり、帰属意識が不確かであることの切実な思いが本作には反映させられているのだろう。

ソウルの大学卒業後に故郷に戻ってきた主人公の女性は、そんなソクチョのくたびれた旅館で働いている。フランス人の父親と韓国人の母親というルーツを持っているのだが、父親には会ったことがないし、フランスにも行ったことがない。そこにフランス人のバンド・デシネ作家であるヤン・ケランがやってくることで、自らのルーツに近接する何か(愛や欲望ではない)のようなものを感じとり惹かれていくのが物語の軸となっている。

しかし、決定的に心を通わせるには至らないのが、境界線を徹底的にテーマとして落とし込んでいる本作なのであって、個人の間に線引かれた相容れなさが取り払われることはない。にもかかわらず、ラストにおいて、主人公の女性はケランが描いたバンド・デシネを見つめながら、冬の終わりと境界線の融解、そして、自らの解放を僅かながらも感じ取っていくのである。それは、分断として機能していたはずの線が、有機的に絡まり合い、未来を編んでいく様をまさにケランが描く線において目撃したからである。ティム・インゴルド『ラインズ: 線の文化史』にはこんな記述がある。

物語を語ることは、語りの中で過去の出来事を〈関係づけて語る(リレイト)〉ことであり、他者が過去の生のさまざまな糸を何度も手繰りながら自分自身の生の糸を紡ぎ出そうとするときに従う、世界の貫く一本の小道を辿り直すことである。だがさらに言えば、ルーピングや編み物の場合のように、いま紡がれつつある糸と過去から手繰られた糸は、両方とも同じ織り糸である。物語が終了する地点、生が始まる地点は存在しない。

ティム・インゴルド『ラインズ: 線の文化史』

線が張り巡らされ、他者との連帯というものがあまりに理想的なものに成り果てようとしている今日に、物語ること、つまりこのような小説をこの世に放つこと、そしてそれを読むことの意味を確かに感じさせるのは、過去と未来が編まれていくその果てに、傷跡を残しつつも、人と人の出会いによって、その痛みを少しでも和らげることを物語の内で体験できるからである。ティム・インゴルド『ラインズ: 線の文化史』を日本語訳した工藤晋の訳者あとがきには、こんな言葉が残されている。

そう、この本はきみのこの世界におけるwayfaringを励ましてくれる本だ。きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。その何かが、世界を変える。そうした変わった世界を、見たいと思う。

戦争は終わらず、むしろ始まろうとする戦争も現れている。「あなたたちの砂浜にはもう戦争なんてないじゃない。戦争の傷痕は残っているかもしれないけど、みんな今を生きている。でも、この砂浜では戦争は終わってない」と主人公はケランへ叫んだ。しかし、フランスでも抑圧的な権力の行使に対抗した反政府デモや『レ・ミゼラブル』(2019)、『アテナ』(2022)などで知られるラジ・リの映画を観れば、何も終わっていないといえるかもしれない。「きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。その何かが、世界を変える」ことなんて起こり得るのかと疑問を感じずにはいられない状況の中で、世界観の変容を目の当たりにできることで、希望がここには確かにあるのだと、僅かながらもあるのだと、この小説は教えてくれるのである。