昨日の今日

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グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』

f:id:You1999:20220412154636j:image「授業の一覧に定番のスペイン語はもちろんあり、フランス語もドイツ語もあった。その中で唯一馴染みのアルファベットを使用しない日本語は、部外者のように、何かのミスがあったかのように孤立していた」p7。本作の主人公である〈きみ〉はその日本語という馴染みのない文字が外国語科目の選択冊子に異彩を放ち存在しているのを見つけて、導かれるように日本という国との接点を持つことになる。そして、マキノセンセイと週に三回学習することで、異質な日本語という言語を身体に馴染ませていく。ひらがな、カタカナ、小一レベルの漢字を暗記、例文を繰り返し繰り返し暗唱する。「何度も動きを繰り返すとその音が神経や筋肉に染み込んでくる」p9のだった。もはや異質さは少しずつ浸透し慣れてきた。そんなときに日本への語学旅行のチャンスがやってくれば、行く!以外の選択肢はない。日本の京都に着いた〈きみ〉は「教科書に到底収まらない世界」を目の当たりにして、感動することになる。

どこを見ても、きみの理解を阻む表象がある。標識といい、文字といい、イメージといい、それぞれの記号が内容にくっつくことなく、ただぼんやりときみの目の前に浮かんでいる。いきなり非識字者になったようなパニックが迫り上がってくる。しかし、同時に興奮を感じているのも確かだ。これらの表記の表面下で、きみには知らない論理が働いている。p13

英語を日本語にするときにこぼれ落ちてしまうような気がする何かや〈きみ〉とは遠く離れた世界で駆動する論理、映画、音楽、本、人々の暮らしに取り憑かれ、もう一度あの場所を訪れたくなって、一層貪欲に日本語学習に勤しむことになる。牧野先生の上級の授業を受け、口語と文語、尊敬語と謙譲語を理解し、表現力も徐々に高めていく。「きみは何となく母語で喋るときよりも、一層強くなったように感じる。まるでこの言語が鎧になってくれるようだ」とまで思えてしまうほどに。

アメリカの大学を卒業したあと、文部科学省の英語指導助手プログラムでもう一度、京都にやってくることが実現したきみは高揚感に包まれるのを感じる。しかし、6年前に感じた「教科書に到底収まらない世界」の豊かさとはどこか違う、違和感のある印象を覚えてしまう。頭のてっぺんが天井につきそうな部屋の高さ、ドアの幅、サイズが合わず足がはみ出してしまうスリッパ、「京都のサマーは暑いやろ、ホット、ホット。」という同僚との会話、

今まで読んできた教科書の中に、この英語混じりの日本語への対策はどこにも載っていなかった。

これはきみが予測していた会話とは全然違うものだ。p34

自分が使ったことも聞いたこともない表現が書かれたプリント、物珍しそうにそして何かを警戒している(しかし優しさや好奇心、同情も含まれた)ように向けられる視線などなど。異質なものへと侵入してきたきみはここでは反対にもう異質なものとなっていた。そのショックはゆっくりとしかし物質のように重い京都の湿気が身体にのしかかるように確かな気怠さを引き起こす。もう帰国することを考えても良いかもしれない、と思う。

けれど、加茂川と高野川が合流して鴨川として南へ流れ、その水面に反射する対岸の光をただ漠然と眺めながら、鴨川デルタを見つめながらもう少し日本に留まることをきみは決める。その三角州のまわりではたくさんの人の愉しげな雰囲気がある。やがてひょんなことから出会った冨田教授のもとで谷崎潤一郎を学び、『春琴抄』に苦戦するなかで、

–––そんな細かいものを調べる前に、落ち着いていっぺん文章を素直に感じてみて。
–––言葉の意味がわからなかったら、読めばいいじゃないですか?
–––意味は後でいいから、まずは言葉を声に出してそのまま読み上げて。音、リズム。そこが第一。p93

という助言をもらう。そうすると、相変わらず意味がわからず理解不能な箇所はあるものの、全体にあるリズムみたいなものが微かに自分の中に侵入してくるのを感じるのだった。それは、初めてきみが日本語を学んだときのような、繰り返し繰り返し読むことで、言語を馴染ませていたあのときに似ている。いま、言葉による結びつきと、しかし、それでも相容れない困難な境があることもきみは理解している。それでも鴨川デルタを眺めながら、神秘的な夜の眺め、朝の淡い日差しを受けた街並みの美しさ、豊かな人々の笑顔を知っている。京都出身の音楽家くるりは言葉による結びつけなさ、しかしそれゆえにわたしたちは繋がりあえ、その喜びを知っていると歌った。

言葉はさんかくで こころは四角だよ

くるり『言葉はさんかくで こころは四角』

きみは鴨川の隣を走る。水はいつものように流れていく。流れた水はやがて戻ってくる。その循環は同じところに戻るのではなく、きみが何度も京都へやってくることを意味している。今日もまたきみは走っていくのだ。

本作は2007年にALT(外国語指導助手)のために日本にやってきて、10年暮らした京都での日々を過ごし、やがて同志社大学大学院へと進んだ著者グレゴリー・ケズナジャットの経験が多分に反映させられていて、そのときに記していた過去の日記に少しずつ虚構を織り交ぜることによって執筆されたらしい。〈きみ〉という二人称は、私、ぼく、俺、というものを主語に置いたときの違和感があったためだという。それは本作にも原稿用紙に向かうシーンでも描かれてある。『鴨川ランナー』の単行本刊行に併せて収録されることになった書き下ろしの短編『異言(タングズ)』では、その人称の違和感に悩まされた前作のことを乗り越えて、あくまで主観的な視点で物語りが綴られている。これもまた異なる世界、外国へと侵入した主人公の生活の困難さやアイデンティティの押し付けに苦悩する物語である。現在は2つの物語を執筆中で、その1つは米国南部が舞台であるらしい*1。米国出身の著者が日本語という言語で書いた本によって米国南部へと越境する次作が待ち遠しい。