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マッテオ・マラーニ『セリエA発アウシュヴィッツ行き』小川光生 訳

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 深く非現実的な静寂が、小さな広場を満たしていた。町は夜明けの薄明けの中にあった。ただ、太陽はまだ地上を温めていなかった。ヴァイス家の4人は、まだ眠っていた。早起きをする理由がなかったからである。子どもたちは、学校から締め出されていたし、両親も大量の禁止令のせいで、日がな一日、何もすることがなくなっていた。1942年8月2日、時刻はまだ朝の7時だった。
 その朝、アパートのドアをノックしたのは、いつものオランダ警察ではなく、ドイツ警察だった。ゲシュタポである。それを証明する原資料が市営文書館に保存され目録化もされている。正確にいうと、「封筒ナンバー213第128番」の文書である。
 それが終着点だった。*1

ファシズム政権下において、インテル、そしてボローニャの指揮官として3度のスクデットセリエAで優勝)とパリ万国博覧会カップ優勝を果たしたアールパード・ヴァイス。これほどの偉大なる記録を残しておきながら、本書の著者であるマッテオ・マラーニは多くの人に会って取材を重ね、国立図書館の奥深くに眠るあらゆる文献を引っ張り出さなければならなかった。ヨーロッパ、アジア・オセアニア、南米、北中米カリブ海、アフリカ。今日、世界のサッカー人口はおよそ2億5000万人もいて、朝も昼も夜も、フットボールに、サッカーに熱狂している人間がどこかにいるのにである。それなのに、誰もがアールパード・ヴァイスのことを忘却の淵に追いやり、その存在を消し去ろうとしていた。

ハンガリー出身の指揮官はイタリアでの幸福な人生を過ごした後、フランス、オランダへの逃亡を経て、ポーランドへとたどり着いた。無論、ポーランドへは連行されたというのが正確である。1942年、ユダヤ人の彼がポーランドへ連行されるということは、アウシュヴィッツというあまりに非人道的な空間が待ち受けているということであった。マッテオ・マラーニはその趨勢を用意周到な調査のもと書き上げ、彼の存在をこの世に知らしめた。アールパード・ヴァイス、彼はただサッカーを愛する者であっただけなのに、人間としての扱いを受けず、死を宣告されなければならなかった。サッカーを愛する者がサッカーを愛する者と争い、血を流すという惨状がロシアによるウクライナ侵攻によって引き起こされていること、各国で起こる移民排斥のこと、もしくは人種差別的な罵詈雑言が今日もスタジアム内外で飛び交っていること、これらが未だ続いていることと併して考えなければならないし、決して忘れてはならないだろう。

本書の帯には「なぜホロコーストの犠牲となったのか」とあるが、なぜ、というのはアールパード自身が問いただしたいはずである。本文にある記述を読み進めても、彼は新聞や多くの本を読む読書家であって、若者に対してサッカーがなんたるかを教え鍛え上げていただけなのである。

〈イタリアでの生活〉

ユダヤ人への統制が徐々に厳しくなってきた1938年当時、アールパードはボローニャを5位に導く成果を残し、来シーズンへの戦略を立てていた。しかし、英仏の宥和政策に伴って、イタリアがドイツと接近し、どのような立場を表明するのか不安感に駆られてもいた。そして、大衆文化庁から発表された告示に記されていた文言が良心に満ちたはずの市井の人々の心を着実に蝕んでいくことを感じとっていたのである。「ファシスト政府は、近年、我が国に移住してきたユダヤ人の動向を注視し続けていく。また、国民全般において、個人間の友好関係あるいは彼らのコミュニティー内の数的重要性を通じ、ユダヤ人が占める割合が、不当に多くなることにおいても同様である」(p45-46)

この告示にまことしやかな正当性を与えてしまったのは、事実上の数字であった。当時、いくつかの職業にユダヤ人が集中していたことは確かであり、しかも、医者、弁護士、大学教員など社会的地位の高い職業における割合が高かったのである。サッカー界においても、アールパードを含めて2人のユダヤ人が監督を務めており、それは当時のセリエA16チームの八分の一を占めていた。この数字が「許容し難い不均衡」というファシスト政府の不当な非難に正当性を与え、市民にもまた偏見が広がっていくのであったp.46。その広がりはファシストの学者グループが発表した「マニフェスト・デッラ・ラッツァ(人種に関するマニフェスト)」によって拡大していくことになる。このマニフェストは、ユダヤ人の生物学的、血液学的、そして身体的な特異性について強調されており、宗教的な側面からもイタリア人と異なる種族であることを殊更に主張するものであったという。

当時、世界のサッカー界を牽引していたのはハンガリー人とオーストリア人であった。「ドナウ派」という異名でも呼ばれ称えられており、リーグの中で実に7人もの指揮官が在籍していたp.64。アールパードはイタリア語をマスターし、フォーメーションという言葉も浸透していない時代に図を用いて選手たちと議論を重ね、カルチョの研究を「科学的な分析」p.117によって深めていった(1934年にイタリア代表をW杯優勝に導いた名将ヴィットーリオ・ポッツォは、後方に5人のディフェンダーを並べるというアールパードのアイデアを参考にしたという話もある)。ブダペスト大学の法学部に通っていたとの記録も残されており、カフカ『変身』やジョイスユリシーズ』など古典にも造詣が深かったのではないかと推測されている。また、1920年代には、アルゼンチンとウルグアイを中心とした南アフリカへの研修旅行も敢行しており、そこで知識を大幅に増やして帰ってきたということもわかっているようだp.71。選手としても過ごしたミラノの街や2度のスクデットを獲得したボローニャでは多くの人から暖かくも熱烈な愛をもらい、研究の成果として、当時、最先端を走る書籍の出版も果たしたのである。

しかし、先述した通り、1938年には人種差別主義の毒牙がイタリアをこれまでとは異なるものに変貌させていた。8月5日には、告示という形でユダヤ人の登録調査が行われることが示され、その2週間後には速やかに実施された。アールパードとその家族は早急にボローニャから出なければいけなくなった。「新聞や政府のプロパガンダは、普段は表に出ない本音、先導的なデマや虚言、愚かな熱狂のはけ口となった。」p.142

〈オランダでの生活〉

フランス・パリへの一時的な避難を経て、アールパードはオランダのドルトレヒトを安息の地として選び取ることになる。結果的にではあるが、この地が最後の楽観の土地となった。彼はまだセミプロの枠を脱していないオランダリーグ、ドルトレヒトFCの監督に就任し、別の仕事に従事しながらであったり、学生であったりする選手たちを束ねてフェイエノールトに勝利を収めるなど、リーグ5位に食い込む成功を成し遂げたp.197。逼迫した状況にあっても、彼はサッカーのことを常に中心にして考えていたのである。広告写真などの撮影をすべて拒むなど細心の注意を払いながらも、この聖域においてだけは誰も不当な行為を働けないだろうという一縷の望みもあったであろう。何よりも彼はサッカーが好きだったのである。「監督はシャイか性格だったが、僕ら全員に礼儀正しく接してくれた。ただ、いつも不安げだった。なるべく写真に写らないようにしていた。それから、イタリアの話をする時は、いつもより悲しそうな顔をしていたな」(当時のDFCのディフェンダー、ディック・ベルヘエイクによる証言)p.203。

アールパードがオランダに来てから1年後、オランダはたったの5日でドイツに降伏した。すべての事態は急速に進んでいった。彼はDFCの選手たちとの練習を続けながら、ここからの脱出を画策していた。しかし、パスポートには悪名高き「J」のスタンプが押され、財産の没収も行われた。もはや逃げる手立ては無いと言ってよかった。オランダ人の多くは差別があることに気がつかないふりした(アンネ・フランクとその家族の隠れ家が露見したのは住民による密告であった。ユダヤ人の国外追放を利用して、彼らの財産を掠め取った者も少なくなかったという)。反対運動が存在しなかったという奇妙な事実に関しては、戦後になって長く議論が戦わされており、一部の歴史記述から、そのあたりの記録が抹消されていたことも判明しているのであるp.220。

しかし、当然のことながらすべての人がダークゾーンに陥ってしまったわけではなかった。財産の没収が行われた中で、アールパードとその家族が身の安全を維持できていたのは、DFC前会長であるファン・ツヴィストによって支えられていたからである。「ファン・ツヴィストは、素直さとユーモアのセンスを持ったアールパードのことが最後まで大好きだった」p.228。しかし、海外への逃亡させるほどの支援はできなかったのであって、間も無く、このエントリーの冒頭に引用した瞬間が待ち受けるのである。

〈あとがきから〉

マッテオ・マラーニは、本書の初版が出る前夜、「アールパード・ヴァイス」という名前で検索をかけたという。それはこのような偉大な監督が、これほど長い間、人々の記憶から完全に消し去られていたという事実に対して甚だ疑問であったからである。そして、そのときかけた検索の結果、Googleが弾き出したヒット数はわずかに6件であったらしい。また、その6件のサイトにあたってみてもすべてが無機質なデータの羅列に過ぎず、ただスクデットを獲得したという記録だけで、それ以上の情報は何も得られなかったのである。あまりに酷い…と落胆せざるを得ない。私たちが知らない、もしくは忘れ去ってる存在はまだまだ過去の時間の中に眠っているのだろう。私たちは存在しないとされているものを闇の中から手繰り寄せるようにして、絶え間ない努力をし続けなけなければならないだろう。アールパードが自律的な思考を続けたように、である。それを手放したとき、再び悲劇を迎える可能性が高くなるように思えてならないのである。

私は本書を読みながら、テレンス・マリック『名もなき生涯』を想起した。第二次世界大戦下、ナチスに併合されたオーストリアにおいて、良心的兵役拒否の信念を貫いた人物の映画である。物語の中で、ジョージ・エリオットの詩が引用されているのだけれど、アールパード・ヴァイスにおいても当てはまるものだと思うのである。

歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓にて眠る人々のおかげで物事がさほど悪くならないのだ。

逼迫した状況にあっても彼はサッカーを続け、学び、教え、伝え、その屈しない意思において繋いだのである。私たちは何も知らず、多くのことを忘れていたけれども、このようにしてサッカーが好きでいられるのも、名もなき誰かが命を賭して繋いでくれたからであることを幾度も思い出さなければならない。

しかし、ただ愚直に自らの信念に訴えているだけでもいけないのは確かであって、ミルトン・マイヤー『彼らは自由だと思っていた』におけるニーメラー牧師の言及を思い返して、最悪の状況になる前に対処しなければならないこともまた重要な点であるだろう。

ニーメラー牧師は、(御自分についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私たちのような人間を代弁して、こう語られました。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動したーしかし、それは遅すぎた、と」

ミルトン・マイヤー『彼らは自由だと思っていた』

私たちはそこにいた人々のことを知り、何度でも思い出し、正しく継承していかなければならない。マッテオ・マラーニ『セリエAアウシュヴィッツ行き』はそのことを教えてくれるのである。

 

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