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テレンス・マリック『名もなき生涯』

f:id:nayo422:20230507042314j:image2011年にパルムドールを受賞した『ツリー・オブ・ライフ』以来、テレンス・マリックの最高傑作ではないか!という興奮とともに喜びたい。しかし上映館も少なく、3時間という上映時間からも観る人は少ないだろうと予想できてしまうのは残念で仕方ないのだけど、本作のイデオロギーの描写に、深い映画体験としての感触を抱かせてくれる。

ナチスによって併合されたオーストリア。山と谷に囲まれた美しい村で暮らすフランツ(アウグスト・ディール)に第二次世界大戦への召集令状が届く。信奉するキリスト教の教えのもとに拒絶するが、やがて狭い独房に閉じ込められ、最後には死刑を言い渡されてしまう。本作では遠藤周作『沈黙』*1でのように、“神の不在”が語られる。沈黙という拒絶の音はどうしようもない悲しみを与え、草木の揺れる音、水の流れる音、といった自然音が、通奏低音として映画を支える。「祈りは必ず届く。神様は応えてくださる」と祈るフランツの妻、ファニの願いは神には届かない。

信仰を貫く強い意志を与えてくださったのは神の恵みである

物語終盤でのこのセリフが物語全編を包み込む。兵役への決然とした拒絶。このフランツの拒絶が反戦ではなく、自らの生きることの尊厳へと向かうのが白眉だ。神は自らの内に存在しするのだ、と。『沈黙』の最後の一文、

たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

遠藤周作『沈黙』

途方もない困難な状況で立ち上るのは信仰の善悪といった単純なものではなくて、酷い苦痛を受け、腕に手錠をかけられても、倒れている傘をそっと直すというシーンのような良い行い。つまり正しさである。その“正しさ”が今作のキーとなるものだ。フランツは牢獄のなかで、正しさのもとに生きる。神の沈黙に嘆くのではなく、自らの正しい行為によって神を宿す。もしくは、自らの正しい行為によって神は沈黙を破ってくれる。このフランツの強固な姿勢に妻や子供がいるにもかかわらず、信念を貫き通すことに理解ができないと言う人が少なからずいるようだ。カミュが『異邦人』の英語版に寄せた自序を読まれたい。

…母親の葬儀で涙を流さない人は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、ということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは、毎日、嘘をつく。ムルソーは外面と見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることの真理である。それはまだ、否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…

アルベール・カミュ『異邦人』解説

 本作の不条理を目撃しながら、頭にあったのはカミュの小説。フランツの生きる意味、“存在”は信念を貫き通すというものであるし、ある崩壊を前にしても嘘をつきたくなかったというものでもある。それはエンド・クレジットに記されるジョージ・エリオットの文言にもつながった。正しいことを正しいと示すことになんの曇りもなく肯定できる。

歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓にて眠る人々のおかげで物事がさほど悪くならないのだ。

フランツは「形だけでもサインしてしまえ」という悪魔のささやきをも拒み、もはや日常に溶け出してしまった戦争の流れに抗いつづけるのは、この誤った状況への困惑であり、嘘をつきたくないという心である。この不条理の中で、窓外の太陽の光を見つめるという点において、フランツにムルソーを重ね合わせてしまいたくなる(もちろん全然違うのだけど)。

いくらかの村の人々が祈りを捧げ、フランツがオートバイを走らせ村に戻る姿は、決して忘れることのできない場面である。そう『名もなき生涯』は心のつながりの物語である。愛おしい生活の剥奪、美しい自然との分断をされようとも心のつながりを断ち切ることはできない。フランツとファニの手紙による交信、太陽の光が注がれ、水が流れる。正しい精神は誰にも侵略されない。雄大な自然が映し出され、何をしようとも動かないその存在に確かな希望を見出そうとするテレンス・マリック印のラスト。美しく力強い自然の中で、なるべく照明を使わずに“つながり”を映し出す。そして、壮絶な破壊によって、平坦になった地を耕し主体性を見出していく、再生の希望をも収められた映画だ*2

 

*1:マーティン・スコセッシ『沈黙ーサイレンスー』でもいい

*2:坂口安吾堕落論