第2シリーズ1話からしばらく感想を書いていない間に、30年前の仲井戸修事件の浮上、ウッシーのSNS漏洩、狂犬病のご遺体、トンネル崩落事故、つぐみの失踪、薬物中毒のご遺体、エンバーミングなどなど、多くの出来事があった。そして、そのドラマの裏には検視官を辞めて興雲大学の臨床検査学科に編入していた丸屋さんが潜んでいたという事実に思わず微笑んでしまう。毎週、重たくのしかかるようなストーリーの連続であるけれども、壁を一枚挟んだ反対側ではまた別のドラマが展開されていて、それはクスッと笑えてしまうようなものであったりもするのだ。連綿とつながっていく2クールものとしての奥行きと丸屋さんが帰ってきたことに素直に喜んでしまいたい。最高。
そして、ウッシーのSNS漏洩による責任問題で興雲大学法医学教室を辞めてしまった茶子先生がエンバーマーとなって戻ってきたのも大変に嬉しいことだ。13話はその力量を発揮。エンバーミング、ご遺体にアルコールやホルマリン液で防腐処置をして、生前に近い姿に戻すこと。そして、茶子先生はこう語る。
最後まで自分らしくあるためのお手伝いをして差し上げる、ということでしょうか。「綺麗だったなあ」とずーっと愛する方には心に留めておいていただきたいじゃないですか
身体を硬直化させゆっくりと蝕んでいく死の惨さ*1に対して、エンバーミングの処置やお化粧をすることで、誰かの心のなかでかつてのままの姿で「生き続ける」という希望へ向かって光を見出そうとしている。それは身体をただ綺麗にするということでなく、生きた証をそのままに残していくことであり、このドラマが紡ぎだそうとしている「生と死」のテーマに誠実に寄り添っていく。
茶子「額の傷はどういたしましょうか」
父親「傷…消えますか?消してあげてください」
愛菜「消さなくてもいいと思います。紗英、たまに自慢してました。この傷、お父さんに見せると気まずそうにするから面白いって…」
なんといってもこの回における白眉はまぎれもなく朝顔と茶子先生がたい焼きを食べながら会話する屋上でのシーンだろう。並んで肘をつくなんとも美しい2人!「学ぶということはいくつになっても、ちょーー楽しいです」と快活に言ってのける茶子先生の姿に、「そうですか」と微笑む朝顔という最高のシーンなのだ。「明日、死ぬかもしれないから」というのをプライベートのモットーに掲げて「生きること」を体現し、軽やかに人生を舞う茶子先生の破顔一笑がどれだけ朝顔を勇気づけたことだろうか。また、食べることを同じ画面に入れてくるという描写もいちいち憎い。同じ方向を見つめ、横並びにいる2人を収めたショットで、心置きなく話す朝顔が印象的だ。
茶子「平さんはお元気ですか?」
朝顔「うーん…まあ…いろいろあって」
茶子「いろいろ?」
朝顔「今ちょっと気まずいので、桑原くんに間に入ってもらってます」
茶子「ありゃりゃりゃ、まあ、それはそれは…」
目を合わせていないからこそ話せる、そのあとでふと目が合い、少し照れ臭そうにするところなんていうのは実にキュートでもあるのです。誰かと話し、視線を交える、その豊かさも『監察医 朝顔』の根幹を支えているのだ。
そうして、13話後半、また朝顔はご遺体のもとへと向かう。そこでは、食べることで生きる人間とはべつに、誰かに食べてもらうことで生きていられた人が描かれることとなる。お隣さんへ手料理を渡すことがこの世界を生きるに値するものとしてくれていたのだ。そして、タッパーに残った届けられなかった手料理の数々、その生きた証があったことを誰かが知ってくれていれば、覚えてくれさえいれば、傷跡も少しは報われるのかもしれない。
丸屋「関係のない人間がおせっかいてすみません。でも、高木さん、余り物をお裾分けしたわけでもなく、あなたのために料理を作っていたんですよ。あの、捨ててもいいですから、ただそのことは知っていてください」
帰路、朝顔は東北にいるお父さんに電話をかける。
朝顔「お父さんに謝りたくて…こないだはお父さんの気持ちも考えないで傷つける形になっちゃったかなあって思って…ごめんね」
平「いや…お父さんこそ怒鳴ったりして悪かった」
朝顔「お父さん…私たちは日々生きてるかな?なんかいろんなことで落ち込んだり、嫌な気分になったりすることもあるけどさ。生きてるって本当はそれだけですごいことなんだよね。みんな誰かのおかげで生かされてるんだよね」
平「お父さん、病院に行ってみるよ、ちゃんと調べてもらう」
朝顔「ほんと?」
平「明日行ってみるよ、朝一番で」
しかし、翌日になって電話をかけると、病院に行く約束なんて全く忘れてしまっていたお父さん。もしかしたらその前の会話ごと。誰かが覚えてくれていれば…その願いはそのまま朝顔のものとなって次回以降へと引き継がれていく。