足が竦んで一歩が踏み出せない。サイレンと屋根の瓦が落ちる音、いなくなってしまった母親の背中が思い出されるとき、その場所は東日本大震災に見舞われた東北の地である。父親の万木平は今も被災地へと赴き、妻を探し続けている。決して終わっていないその事実が、立ち止まる足元にクローズアップすることやたった今乗ってきた列車に再び乗り込み、反対方向に進んでいくことで描かれていく。
あなた生きてるのよね?
3月11日、そう問いかけられた朝顔は法医学者となった。朝顔が「教えてください、お願いします」と囁くのは、その人がどう死んだかではなく、どう生きていたのかを知りたいからであり、「あなたは生きていたのよね?」と何度も敬意をもって眼差すことで、憶測で語られてしまう動機や見解に抗ってみせる。そうであるから、『監察医 朝顔』が注力するのは日常のありふれた風景だ。“死”というテーマを扱うドラマで、生きている(生きていた)魂を描くことで、人間の“生”の営みを正確に捉えようとする。それを豊かな食事のシーンが支えているのは必然なのだ。本当にたくさんのシーンで食べることの所作が生活を、人々の暮らしを形作っている。そして、どこまでも市井の人々を撮ることに尽力している。それはプロポーズの舞台にB級もんじゃ焼き屋を選んでしまうほどだ。
桑原「僕と結婚してください!」
朝顔「いやいやいや…ここでプロポーズするかね…」
桑原「えっ」
公園のベンチに座り、アイスを食べながら、家族の話をする。食べることと話すこと、法医学というものを中心に据えながらも、このドラマが描くのはやはり、そういうことだ。
桑原「朝顔の家にみんなで暮らさない?平さんが生まれ育って、朝顔が生まれ育った家に、俺も住みたい」
朝顔「私、本当に桑原くんと2人で住みたいって思ってたんだよ。桑原くんがそう言ってくれるなら…」
桑原「大丈夫、俺、朝顔のこと大好きだもん」
朝顔「つぐみ?今日ママ夕飯サボってもいいかな?」
つぐみ「うん、いいよぉ」
朝顔「じゃあ、コロッケでいい?」
つぐみ「やった〜!」
朝顔「いただきます」
つぐみ「いただきます」
平「いただきます」
つぐみ「ママのがいい」
朝顔「えっ、これ辛いよ?」
つぐみ「だいじょうぶ」
朝顔「ちょっとだけね、はい、どう?」
平「辛いだろ?」
つぐみ「ううん、おいしい、もっと」
朝顔「赤ちゃんみたい」
つぐみ「あかちゃんじゃないもん」
平「そうだよな〜、つぐみ4歳だもんな〜」
朝顔「はい、ついてるよ」
つぐみ「つぐみ、このカレーたべたことある」
朝顔「え?初めてでしょ?」
つぐみ「ううん、ママのおなかのなかでたべた」
朝顔「本当に?」
桑原「ただいまー!」
つぐみ「パパお帰りー!!」
朝顔「お帰りー」
平「お帰りー」
桑原「ただいまー!おっ、さてはカレーだな!シュークリーム買ってきた」
朝顔「つぐみ、シュークリームだって!」
つぐみ「やったあ!」
あまりにも瑞々しい会話の充足。この些細な会話の妙を楽しむことによって、私たちは朝顔や平が向き合っていることの重さに理解を深められるのかもしれない。立ち止まった足の重さに、たくさんのかき消され、失われた声があるのだ。
朝顔「私は結衣さんのご遺体目の前にしたとき、何もできなかった。悲しくて何もできなかった。お父さんと一緒に、東北に行ったときだって」
平「朝顔は自分のせいだと思ってるだろうけど、そんなことない、お母さんだって、朝顔が今ちゃんと生きていること、喜んでると思うよ。朝顔が法医になるって言ったとき、お父さん嬉しかった。でもそれは法医だからとかじゃなくて、朝顔が一生懸命生きようとしていることが嬉しかった。ただお父さん、朝顔が生きてさえいてくれればそれでいい」
朝顔「うまくできないかもしれないけど、自分ができるところまで、やれるだけやってみる」
そして、また東北にやってきた。立ち止まった足は一歩ずつ踏み出されていく。つぐみの声がさらにそれを押す。
ママ早くー!
自分のできるところまで、やれるだけやってまる。それで、そのバトンを渡していく。その循環こそが生きることへの祝福だ。人の“生”は失われていくものではない。きっと受け継がれていくものだ。であるから、誰かの“生”は消えずに、ときに目の前に現れたりもする。
朝顔「梨食べると夏終わったって思うよねー」
里子*1「本当ね」
平「つぐみ、食べすぎちゃダメだぞ」
里子「朝顔も小さいときの食欲も凄かったわよ」
平「たしかに」
朝顔「私に似たのかな?」
浩之*2「里子も小さいとき、そうだったぞー!」
里子「そうだった?」
浩之「うん、そうだよ」
つぐみが朝顔と似ているように、朝顔もまた、里子と似ている。この繋がっていく“生”があまりに美しく、継承としての“生”を輝かせている。死への弔いは生きることであり、生きることは食べて、話して、そのバトンを渡していくことだ。里子が朝顔に最後に言った言葉もまた「朝顔、あとは任せたね」だった。
朝顔「私、夫の桑原くんと、娘のつぐみと、やっと帰ってこれたよ、心配しないで、みんなと一緒にいるから、大丈夫だからね」
みんなと一緒にいる。受け継がれていく“生”の結実として、家族ノカタチが出来上がり、背中を押す。そして、それが第1シリーズのラスト、最も豊かで、微笑ましい生活のありようとしてそこに存在している。
桑原「つぐみ、最後にもう1回」
つぐみ「眠り姫さん、眠り姫さん、起きてください」
桑原「いいねぇ、つぐみ」
平「セリフが自然になったよ」
桑原「完全に役をモノにしましたよね!」
平「うん」
朝顔「つぐみ、セリフ1個しかないんだけど、実はこの役が1番いいとこで出てくるからね!リスのみんなで眠り姫さん助けてあげてね」
つぐみ「うん!」
平「よし!行こ行こ」
つぐみ「台本」
平「あっ、台本」
朝顔「台本?あった」
なんという幸せなシーン!“生”を紡いでいくその存在への眼差しにいくつもの物語を肯定する力が溢れている。誰もが誰かに物語を連綿と受け継いでいる、それは決して代替できない、掛け替えのないものなのだ、と折坂悠太の声が訴えるとき、このドラマはより一層、誰かの心に染み渡るのだ。
ここに願う願う願う
暗闇に呼んだその名を
胸にきつく抱き願う
物語は続くこの僕に
ほら今に咲く、花!折坂悠太『朝顔』