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今村夏子を読もう。2020秋。

f:id:You1999:20201021185734j:image今村夏子を読もう。劇場では大森立嗣により映画化された『星の子』を観ることもできるという2020秋。夏が終わり涼しくなってきた今こそ、素晴らしい作品群をまとめて読んでしまいましょう。平易な文章に分量も少なくサラッと読めるので万人におすすめできる小説家だ。しかし、そのサラッと読めるのに対して、読後感はあまりに苦しい。それはこの現代社会の歪さで困惑する私たちの前に鏡を突き立ててくるからかもしれない。だけど、大丈夫だ。一緒になって動揺している誰かが世界のどこかにいる救い。今村夏子の本を読むという体験はそのことを改めて教えてくれる。まずもって読むとなると、『こちらあみ子』になるだろうか。

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

現代社会で「ありえる」ために、私は様々なものに意識を合わせようとする。場の空気とか効率とか「イケてる」とか。その作業は大変だけど、そうしないと生きていけないと思うから、できるだけズレないようにがんばり続ける。
 記念日を忘れないようにして、シャツの裾をちゃんと出して、飲み会の席順の心配をして……、ふと不安になる。この作業で一生が終わってしまうんじゃないか。何か、おかしい。大事なことが思い出せそうで思い出せない。ただ、「ありえない」の塊のようなあみ子をみていると勇気が湧いてくる。逸脱せよ、という幻の声がきこえる。
 でも、こわい。あみ子はこわくないのだろうか。だって世界から一人だけ島流しなのに。

穂村弘 ----今村夏子「こちらあみ子」書評 “ありえない”の塊のような女の子----

私たちは“何かになる”、“何かを信じる”ことで生きていける、今村夏子の小説を読んでいるといつもそう思う。それは、村田沙耶香コンビニ人間』と共鳴するように、何かのために生きることで、“ありえない”存在になることを常に回避し、この世に居場所を作り出していくということだ。私たちは欠落を嫌い、その穴に何かを埋め合わせることで安心し、生きていける。しかし、『こちらあみ子』の主人公・あみ子は欠落をそのままに前歯が3本無い。その穴っぽこを何かで補おうともしないのである。

三本の歯は完全に抜けたわけではなくて、根っこが残っているから差し歯をお作りすることもできますよ、と担当医は言った。しかしあみ子は舌先でなぞったときに伝わる、歯茎と穴のでこぼこが気に入った。何度も繰り返すうちにそれは新しい癖となり、べつにもう歯はいらん、と担当医にそう伝えた。

今村夏子『こちらあみ子』

ただ真っ直ぐで、まともであることで狂人扱いされてしまう社会で、あみ子は必死にトランシーバーで交信をしようとする。私たちはその交信を受け取ることができるだろうか、というと多分それはできなくて、その理由を町田康の素晴らしい解説が教えてくれる。

人に勇気や力を与えることができないのか。というと、私は、できない、と思う。なぜなら人に勇気や力を与えようと企図した、その段階で、いまいったような代替品に成り下がるからである。

〈中略〉

例えば、この世で一途に愛することができる人間はどんな人間か、について言えば、世間を生きる普通の人間には無理だ、ということになる。なぜかというと世間には様々の利害関係が錯綜していて、その世間を生きるということは、自らもその利害関係のネットワークの一部になってしまい、それは一途に愛することの障害になるからで、したがって、一途に愛するためには、世間の外側にいなければならない。しかし、人間が世間の外側に出るということは実に難しいことで、だから多くの場合は一途に愛することはなく、他のことと適度にバランスをとって愛したり、また、そのことで愛されたりもする。つまり殆どの人間が一途に愛するということはないということで、一途に愛する者は、この世の居場所がない人間でなければならないのである。

つまりは、あみ子は唯一の存在であるのに対して、私たちは代替可能な存在であるのだけれど、そうであるから、私たちが絶対になることのできない存在である“あみ子”のことを遠ざけてしまいたくなるし、あみ子が小説のなかで起こる様々な出来事を認識していないことに少しばかり怖くなってしまったりする。そして、私たちは一途に愛することができないことを見て見ぬふりをしている。その事実を暴かれたくないのだろうけれど、では、暴かれたくなくて、世間の外側に出られない我々が生きるということ(何かのために生きるのかということ)がどういったものであるかが書かれているのが

あひる (角川文庫)

あひる (角川文庫)

 
星の子 (朝日文庫)

星の子 (朝日文庫)

 

『あひる』、『星の子』であったりする。『あひる』では、子どもたちを家に招くために、あひるを2代、3代と代替しながら、“あひるのいる家”を作り続ける両親のことを困惑しながら観察する主人公が描かれていて、『星の子』では、信仰のために生きる両親を持つ子どもが描かれている。居場所を求めて“あひる”を飼い、“信仰する”のだ。現代社会で私たちが生きるということは、“何か”に支えられることで居場所を作りあげるということだ。そして、この2冊が描くのは、同じ対象を見つめていてもそれは見る人によって全く異なってしまうということ、もしくは、異なっていたとしても大して人は動揺しないということを目の当たりにしたときの困惑や動揺だ。

違うあひるだと気づいた子は、なぜかひとりもいなかった。たしかに日ごろから観察していないと気づかない程度の、わずかな違いではあるのだけれど。

今村夏子『あひる』

「アッ」

「どうしたの、ちーちゃん」

「見えた」

「え?」

「見えたよ」

「どこ?」

「あのへん」

わたしはたった今星が流れた場所を指差した。

「母さん見たか」

「いいえ」

「あのへんだよ」

「ちーちゃん見まちがえたんじゃないの」

「ほんと見えたってば」

「ほんと?」

「ほんとだよ!」

「見えなかったけどなあ」

「ええ」

今村夏子『星の子』

同じものを見ていたとしても、それは見る人によって形を変えてしまうということを、私たちは知っている。知っているが、そのことを見て見ぬふりする。この歪な社会で生きるにはそれぞれにとっての“何か”が必要であり、その“何か”を共有できていることに安心しているのであって、その共有している“何か”が多少違くても問題ないのである。私たちが代替可能であるのと同じように、私たちが見つめ続けるその“何か”さえも代替可能なものなのであり、それで、私たちは揺らぎ彷徨ってしまう。現代社会での居場所を求めているわけであるのだけれども、もうそこには「ありえる」ものしかなくて、「ありえる」ものはいくらでも代替可能に陥ってしまう。唯一のものではないのだ。

じゃあ、その揺らぎの先には何があるのか。人間にとっての大切な“何か(『コンビニ人間』でいうところのコンビニ、『あひる』でいうところのあひる)”を奪い取ってしまうとどうなるか、居場所を強引にでも引き剥がしてみようというのを書いているのが、

むらさきのスカートの女

むらさきのスカートの女

 
父と私の桜尾通り商店街

父と私の桜尾通り商店街

  • 作者:今村 夏子
  • 発売日: 2019/02/22
  • メディア: 単行本
 

『むらさきのスカートの女』や『父と私の桜尾通り商店街』で、町田康の解説の言葉を借りるならば、そうなると一途に愛せることができるようになるのかもしれないけれど、やっぱりそれでも世間の外側になんていけなくて、私たちは結局、奪われてできた穴に埋めるための新しい“何か”を探す旅に出かけることになる。『むらさきのスカートの女』は、題名のとおり“むらさきのスカートの女”を観察する主人公の物語で、全く自分の内へと向かう描写はなく、その観察対象への愛だけが、不気味さとユーモアを交えながら書かれている。その執着はラスト、それはもう同一化したいという願いを叶えてしまうほどに突き抜けた哀しさと可笑しさを含みながら閉じられる。一途に愛しているその対象もまたそれは結局、自分と置き換えられてしまう。外に出られないのだ。『父と私の桜尾通り商店街』でも“何か”を奪われていく過程が描かれていくのだけれど、その先で得られる祝福を柔らかい筆致で残してくれている。

そういえば、あの人の店、たしかアルバイトの募集をしていたはず。顔を上げると、大きな桜の花びらに刻まれた文字がたしかに私を歓迎していた。

今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

今村夏子は複雑な世間で生きる人間には一途に愛することはできないのかもしれない、替えのきく私たちなのかもしれないけれども絶対的に存在して良いのだ、ということを確かめようと、私たちが知り得ない不可解なものに向けて書き、何にでも置き換えられるからこその私たちの“かけがえのなさ”をその不気味さや奇妙さそのままに世界のありようをハッピーエンドに変容させてしまおうとしていて、その筆力を体験することで、私たちはまた“何か”を探しつづけるこの複雑な世間に戻っていけるのであって、慰め合いながらも愛して生きていくのである。一途に愛せなくとも、いろんなものを入れ替えて、そして、自分自身もたくさん入れ替えてそうやって生きていくこともきっと祝福されるし、歓迎してくれるのだ。代替可能な存在である人間への讃歌である。

 

 

〈2020年12月 追記〉

木になった亜沙

木になった亜沙

 

2020年4月に発売された『木になった亜沙』を読んだ。その他にも2つの短編がはいっていて、『的になった七未』『ある夜の思い出』がある。やっぱりどんどん入れ替わっていく話が集まっていた。どれも人から別の何かへと姿を変えていくのだけれど、その変化の境界線はほとんどなくて実にシームレス。世界と世界が緩やかにつながっていくなかで、木なったり、的になったり、猫になったりする。それは“命”とか“生”といったものを抽象化して記号化することで、その周りにある状況やモノから別の“生”が出来上がって、そして、新しい別の世界が生まれる。たくさんたくさん入れ替えたり、別のものと取っ替えたりしながらも、その先にはちゃんと祝福や歓迎があるのだ。