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ドミニク・クック『クーリエ:最高機密の運び屋』

【9/23(木・祝)公開】ソ連高官が語る“スパイの掟” ベネディクト・カンバーバッチ主演、『クーリエ:最高機密の運び屋』本編映像 - YouTube 東西冷戦下、米ソ間の核武装競争が激化するなか、世界の安定を求めたオレグ・ペンコフスキーは祖国であるソ連を裏切ることを決意し、CIAとMI6のエージェントは東欧でセールスマンとして活躍する英国人グレヴィル・ウィン(ベネディクト・カンバーバッチ)をスパイとしてソ連へ送り、オレグとの接触を試みるのであった。ウィンはこの危険な諜報活動に参加することに逡巡するのだけれど、妻がキッチンにいる様子とウィンがその隣の部屋で「商談のためにソ連に向かう」と告白するという、壁を隔てて部屋と部屋を横並びにした美しい一枚のショットによって、ウィンがこれから家族との生活(キッチン)を手放し、家族にでさえも壁を作り嘘をつかなければならないということが描かれる、そのことに伴って彼は自己の空間へと誘われていくことが明確となっていくのであった。

無事にモスクワで合流した2人は劇場という他の観客と同方向を見つめる横並びショットを見せながらも、2人だけの思惑という緊張感を共有しながら連帯を強めていく。そして、帰国する。それを何度も繰り返すという、機密情報を運び続ける往復運動はたしかにウィンの身体を蝕んでいくのであって、あるひとつのミスによって計画が台無しになる責務を全うしているウィンは、息子がレインコートを忘れるというそんな些細なことにでさえも憤り、不安を感じてしまうのであった。

この敵国に潜入し活動を行うときの緊迫感や、まったく誰かの視線を意識させるようなゆっくりとした移動するカメラの動きは、北朝鮮に潜入した韓国工作員を描いた2018年の映画『工作 黒金星と呼ばれた男』を思い出すことだろう。本作『クーリエ:最高機密の運び屋』も実話であることによる説得力、そして驚きは物語を強固にしていくのである。

1962年10月、キューバ危機の勃発によって世界は全面核戦争の危機に瀕することになり、彼らの諜報活動もその重要度は高まっていくのだけれど、そんなあるときオレグがソ連にスパイ活動を疑われ毒をもられてしまうなど、そのときには一命を取り留めるが疑いは日を追うごとに確からしくなっていく。ウィンはオレグの亡命を手助けするためにもう一度モスクワにわたるのであるが、それは失敗に終わってしまう。ウィンは服を脱がされ、頭髪を刈られ、狭い独房に閉じ込められることになる。緊迫感が漂うスパイ活動を甘美なカメラ移動で映し出した前半部分が『工作 黒金星と呼ばれた男』であるのならば、これからラストにかけては2019年の映画テレンス『名もなき生涯』である。自らの良き信念を抱きながら狭い独房で耐え忍ぶ姿はフランツ・イェーガーシュテッターのそれであるのだ。苦しい6ヶ月を過ごし、痩せ細ったウィル*1はこの土地にある唯一の友達以外を果たすことになる。オレグである。そこでウィルは彼に、「あなたのおかげで世界は核戦争を回避できたこと、あなたのおかげで世界が何とか保たれているのだ」と伝えるシーンはあまりにも感動的なものである。『名もなき生涯』で、スクリーンに映し出されたジョージ・エリオットの言葉は本作にも共鳴するのである。

歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓にて眠る人々のおかげで物事がさほど悪くならないのだ。

帰国したウィルがテレビ取材を受ける映像などで本作は終わるのだが、私たちはそれまでにもたくさんの人々の姿をことを思い出すだろう。オレグ・ペンコフスキーもそうであるだろうし、映画冒頭で頭を撃ち抜かれた彼のことも。歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていくのである。

*1:げっそりしたベネディクト・カンバーバッチ、ここにも信念、美学があるのだ