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The Japanese House 2024.01.18 at SHIBUYA CLUB QUATTRO

f:id:nayo422:20240122225442j:imageThe Japanese HouseをSHIBUYA CLUB QUATTROにて目撃。ライブハウスの扉が閉まらないほどに多くの人が駆けつけていた。クリエイティブマンが彼らの集客力を見くびっていたのではないかと思ってしまった。オープニングを飾るのは『Sad to Breathe』『Touching Yourself』『Something Has to Change』などといったThe Japanese Houseを代表する楽曲群。ちらちらと中空を点滅する雪のようにクラブハウスに降り注ぐ電子音が、静かにステージの始まりを告げる。彼らが鳴らす音楽が表現するテーマは、そのプロジェクト名が指し示すように、空間(House)であるのだと思う。

私的空間に誰かが入ってくること。もしくは、自分が誰かの空間に入っていくこと。そして、その空間から自ら出ていくこと。もしくは、誰かが去ってしまうこと。空間に誰かが入ってきて、去っていく。しかし、それは元に戻るというわけではない。喜びの、憎しみの、悲しみの、悦びの記憶が確かにその空間に残り、かつての孤独をそのままに享受できるようにはならないのだ。人間は生まれ、やがて死ぬ。この世界に入り、いつかは退場していく運命にある。世界はその度に変化を起こしている。『In the End It Always Does』(最後はいつだってそうなる)。それが最新アルバムのタイトルだった。生命の短さと、だからこその尊さ。

The Japanese House 2024.01.18 at SHIBUYA CLUB QUATTROのポスターは、見ようによっては二重螺旋構造のように見えなくもない気がするのだけど、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって発見されたそれは、この世に存在する生物すべてが同様の構造であることを世間に知らしめたのだった。しかしながら、世界は私たちと他者との間に明確に境界線を引くことによって分断を引き起こしている。私たちはあなたたちと異なるのだ、と。あなたたちは私たちと異なるのだ、と。

アンバー・ベインは、多くのインタビューでクィアな「居場所」を描くことを心がけていると語っているし*1、『In the End It Always Does』アルバムジャケットの円環は何かを承認するようなイメージをも想起できる。

クィアなスペースにいると、存在しているだけで「居場所」が生まれるんですよね」*2

わたしはここにいていいのだ、と。あなたはここにいていいのだ、と。しかし、その相互の承認の関係によって創出する「居場所」は、その空間が誕生したと同時に壁をも生んでしまう。円環を描く曲線は、承認すると同時にそこに境界線をも描いてゆくのだ。アンバー・ベインの歌声からはそのような困難をも理解していることを感じ取れる。例えば、『Boyhood』。自己の葛藤、そしてそれを克服し得る承認とその困難を描くこの楽曲は、後半にかけてかすかに希望を灯す。異なる空間にある円環がわずかに重なり、私たちは異なる存在でありながらも、分かり合える瞬間があるのだ、と。アンコールに応えて、再びステージに戻ってきたアンバーは、暗闇の中に真っ直ぐ降り注ぐ光に包まれ、牧歌的な風景のなかで心癒される場所を創出していく。

Sitting in the back seat, driving with my sunshine baby
Well, I've gone a little crazy
Surely someone's gonna save me now

『Sunshine Baby』

そういえば、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』もまた、自らの居場所を獲得しようとするもの物語であったことを思い出す*3。少し違うのは、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』が運転席でハンドルを握ろうとしたのに対して、The Japanese House『Sunshine Baby』では、後部座席に座り、誰かの救いに身を委ねようとするところだろうか。目的地があるのかどうかはわからないけれど、車は進んでいく。家福(西島秀俊)の言葉が聞こえる。

生き残ったものは死んだもののことを考え続ける。どんな形であれ。それがずっと続く。僕や君はそうやって生きてかなくちゃいけない。

最新アルバム『In the End It Always Does』もそうだけれど、The Japanese Houseの楽曲には、悲しみや傷跡を残しながらもそれでも進んでいくことの重要性を歌うものが多くある。承認を示す円環構造が車輪となって、ぐるぐると回転しながら、頭を悩ませながら、時間を進めていく。

To be putting off the end
cause in the end, it always does

『Sunshine Baby』

という歌詞は、映画『君の名前で僕を呼んで』からの引用であるらしい。「父親が主人公である息子エリオに、悲しみがあっても、それを消し去ってはいけない、そうしないと40歳になって何も感じなくなる、というような内容を語りかけているシーンがあって。引用は、完全にその台詞からの使いまわしのようなものだけど、要はそういうことを感じているときは、良い感情だけでなく、悪い感情も感じることが大切だということなんだと思う」*4とインタビューで語っている。暖かな光に包まれ、車は走り続ける。私たちは理想にいつか辿り着く。最後はいつもそうなるのだ、と今なら思うことができる。

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*1:The Japanese Houseが語る、クィアとして音楽業界に思うこと、The 1975との信頼関係https://rollingstonejapan.com/articles/detail/39676/2/1/1

*2:The Japanese Houseが語る、クィアとして音楽業界に思うことhttps://rollingstonejapan.com/articles/detail/39676#google_vignette

*3:濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』 - KINOUNOKYOU

*4:ザ・ジャパニーズ・ハウスにインタビュー「いつだって最後には必ず終わりがやってくる」https://numero.jp/interview391/