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濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

f:id:You1999:20211206021356j:image余計なものを削ぎ落として、ただテクストに従順に向き合い何度も身体に染みつくまで台本を読んでもらうようにしたあとで、現場で初めて感情をのせるという濱口メソッドは、『ドライブ・マイ・カー』本編、家福(西島秀俊)が演出する舞台でも用いられている。チェーホフ『ワーニャ伯父さん』そのものからは音声が届かないのであって、そのテクストのみをそのまま信じることによってその演劇から放たれる何かに近づいていくのである。何度も何度もテクストを口に出すことによって、しだいによそよそしさがなくなり、自らの音声(マイ・カー)を獲得していく(それはタイヤがぐるぐると回転しながら前に進むことによって描かれる)。つまり、相手の音声を直接聴くことなしに、自らのなかでテクストを落とし込むことで、その音声を自分のものとして醸成していくプロセスであった。

家福と妻である音(霧島れいか)は妻のその名前が示唆するように音声による営みを交わすのであって、音が物語り、それを家福が聴く、そしてそれを家福が記憶して翌朝に物語り、音が聴くという、この対話、音の音声を信じることによって、家福は音の内部にある何かに接近している、音(音声)を獲得している、その人を理解していると思うのであった。しかし、そうであるがために、家福は家に帰ることを躊躇ってしまい、音は死んでしまう。そう、妻の音声を聴くことを拒んだのであった(しかし、実際は、音の音声は不確かであることが映画後半、高槻の告白によって明らかになるのであった)。それは家福が妻の音声を信用していたからであり、結びつきそのものであったからであった。そうであるからして、その音声によって関係が切断されることを恐れていた。自らの心の音声に従うことをせずにやり過ごしてしまった。しかし、そのことによってむしろ家福のほうから関係を切断してしまったのであった。

2年後、広島の演劇祭に招かれた彼はドライバーのみさきとの交流を徐々に深めながら着実に舞台の準備を進めていく。そこでも、家福の舞台を支えるものはテクストを読み込み、自らの内部に音声を獲得していくことにあったのだけれど、広島での演劇祭においては、ユナという音声を持たない登場人物が現れるのである。彼女は家福とみさき、そして夫であるユンスとの食事の場にて、こう話す。

自分の言葉が伝わらないのは私にとって普通のことです。
でも、見ることも聞くこともできます。ときには言葉よりもずっとたくさんのことを理解できます。この稽古で大事なことはそっちじゃないですか。

テクストや音声による結びつきではなく、大切になるのはむしろ身振りや手振りなどの身体表現なのであって、テクストや音声が取りこぼしてしまうものにこそ注意深くあるべきなのではないか、と。家福とみさきの関係においても、彼らは言葉による結びつきはほとんどなく、車の乗り心地による対話がほとんどなのであった。

私、あの車が好きです。とても大事にされてるのがわかるので、私も大事に運転したいと思うのです。

という自動車というものを媒体にした彼らのコミュニケーションは単なる言葉による結びつき以上の深いところで交錯し、終盤のシーンでの抱擁に繋げられるのであった。車に乗車し、前方を見つめていた2人の視線がここで交錯するのだった。

“ドライブ・マイ・カー”というタイトルである本作は、そのタイトル通り、自らの車を運転するということを示唆するのであって、それは先述した通り、濱口メソッドといわれるプロセスが目指す結果のことを指してもいた。しかし、本作で異彩を放っているのはやはり多重言語劇であるのだろうし、そこに注目せずにはいられないだろう。差異そのままにさまざまな言語を行き来する、劇中の多言語劇を中心に9つの言語を交えて展開される本作は、まさに複数の国家(世界)の移動、移民の、旅の物語でもあるように思える。今も誰かが世界を移動する。そして、他者の侵入によって、多かれ少なかれ世界が動揺する。家福と音の世界に子どもという存在がやってきて、去っていった。その行き来が彼らの世界を揺動させたのだった。

僕と音の間には娘がいた。4歳の時に肺炎で死んだ。生きていれば23歳だ。娘の死で僕らの幸せな時間は終わった。音は女優を辞めた。僕はテレビの仕事をやめて舞台に戻った。

誰かが来て、去っていく。それは前の状態に戻ることを意味せず、別の世界への書き換えが起こってしまうのであった。どこに行っても理解され難い何者かである私たちは、その世界を行き来することには耐えられないのであって、そうであるから、“マイ・カー”という揺らがない空間と言葉を持とうとするではないか。しかし、それを手に入れてしまえば、そこに侵入されることへの不安もまた浮かび上がってきてしまうのであった。他者の車を運転していた美咲が最終シーンにおいて自らの車を手に入れたこと、美咲の母親がもうひとつの人格を欲したこと、不安な空虚さに怯えながら監視カメラに向かって「私が殺した」ことを世界に存在させること、“マイ・カー”を守るために侵入してくる他者を高槻が排除しようとすること。しかし、世界を維持し続けることはできない。それは世界が個人によって構成されているからではないからであって、誰かがこの世界から去れば、その有様は幾らか変容してしまう、

生き残ったものは死んだもののことを考え続ける。どんな形であれ。それがずっと続く。僕や君はそうやって生きてかなくちゃいけない。

世界は続いていく。まっすぐに伸びた道を戻ることなく、進んでいかなければならない。車輪が回転するように、何度も自問自答を繰り返さなければならない。そして、そのようにしてしか私たちは進むことができないのだ。