昨日の今日

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adieu『coucou -夏のつどい-』

f:id:nayo422:20230826205553j:imageadieuライブが1年ぶりの開催。「1年に1回くらいはみんなで集まって、同じ空間で音楽を共有しましょう」(adieu)ということで企画された夏のつどい。しかしながら、“夏のつどい”というものはあまりに過酷だ。先日のサマソニで何十人もが倒れたように、今回のadieuライブにおいても、私の2列後ろくらいにいた人が開演前に倒れてしまった。1時間前に開場し、開演までギュウギュウの人の中で、立ちっぱなしというのはなかなかどうして過酷である。AIなどの活用が叫ばれる時代にあって、ライブハウスにおけるこういった問題はどうにかできないものなのだろうか、と訝しんでしまう。ライブ終わりには腰が砕けてしまうではないか。

と、なんだか愚痴をこぼしてしまいたくなるのは、夏の暑さのせいだろうか。しかし、adieuがステージに登場すれば、そんなことは忘れてしまうのであって、「花は揺れる/雲は流れていく/月は欠ける/夜は明ける」という情景描写による空間の構築は、私たちを幻想の世界にあっという間に連れていってしまうのである。誰かとの別れを歌う曲ではあるが、その先にもしかしたら…という円環構造を描き出す。

雨はやがて
川になり海に消える

『花は揺れる』

adieu(さよなら)という言葉に、また出会えるかもしれないと願いを込めるように。『強がり』『旅立ち』と経て、『灯台より』『景色/欄干』と明かりを灯す存在とそれを見つめる存在を描き出すと同時に、視線の交差を試みる。目の前に闇しか広がっていないとしても、その先に誰かがいるのだと信じるために。

そして、繰り返す夜の途中で

『春の羅針』

誰もが夜の途中にいる。世界から理想は潰え、光は奪われていく。世界は夢を描けずにいる。時間は過ぎ去り、過去となって流れてゆく。目の前に広がるあまりに膨大なデジタルな世界は、決して世界とつながっていないことを我々は認識していかないといけない。しかし、そうしてつながる空間も希望となり得ることを信じていかなければならない。

私と同じ寂しい目をしていた
あなたを見つけたのでした

『穴空きの空』

デジタルなタイムラインは社会ではないのである。社会はもっとフィジカルな、あなたの“隣”にあるのだ。“穴あきの空”というイメージはつづく柴田聡子によって提供された『夏の限り』の「パーカーの紐が抜け落ちた穴」、そして、カネコアヤノによる『天使』の「光輪」が示す、円環の構造によって支えられていく。まさに、この円環とは始まりも終わりもなく、まあるく承認する構造であって、ラスト、「瞳は光る 瞳は光る」とその丸い円環には希望があるはずだと目を輝かせる。

しなしながら、その次の『シンクロナイズ』において、個人と個人は容易くすれ違うのであって、ばらばらなのだと轟音のなか歌い上げる。そして、『ひかりのはなし』『ワイン』。『adieu3』のラスト2曲で同じ並びで本編を終える。『ひかりのはなし』は2022年のベストソングであるからして、当たり前にちょーいい曲。

そう、ここで言っておかなければならない。今回のライブ、adieuは金髪であったのだ。10月から始まるフジテレビ水10ドラマ『パリピ孔明』で英子を演じるからなのだけれど、金髪姿の初お披露目を目撃できたことに感無量でありました。私はやはりゴールドの髪色という、その色だけでなにか神々しさというか、“光”のようなものを感じてしまうのだけれど、まさに「僕は見たよ/僕は見たよ/あの暖かい光」である。

アンコールでステージに戻ってadieuは、アコースティックギターを抱えて、andymori『16』カヴァー。

なんでもない日を繰り返し

andymori『16』

adieuはやはり繰り返す。魂というものはその繰り返しによって繋がれるものである。小山田壮平の美しき魂が継承されたかのような姿が印象的であった(小山田壮平こそ、“光”でありますよね…)。ラストは、『よるのあと』『ナラタージュ』『ダリア』とキラーチューンで閉幕。ライブハウスの出口には、今日のセットリストが設置されていた。また、来年まで。adieu.f:id:nayo422:20230909155711j:image

 

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