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Horsegirl『Versions of Modern Performance』

f:id:You1999:20220611022718j:imageシカゴは「風の街(Windy City)」とよく言われるそうなのだけれど、その言葉は、元来、「口ばっかりの街」という意味での使われ方であったらしい。十九世紀末、コロンブスアメリカ到達四百年を記念する万国博覧会の開催候補地としてシカゴが名乗りを挙げたときに、「あんな口ばっかりの街に万博ができるものか」とニューヨークのジャーナリストが罵ったことがはじまりなのだという。経済的にも文化的にも中西部随一の大都市も、当時の東部人から見れば、田舎者が何を偉そうに、という感じだったらしいのだけれど、結局、万博はシカゴで開催され、大成功を収めた。

だがいまでは、ほとんどの人がWindy Cityとは「風の街」の意味だと思っている。気象学的にみて、本当に他の都市よりも風が強いのかは疑わしいようなのだけれど*1、そういう誤解が正解として通用してしまうほどに、シカゴという街が“風の吹きそうな”街であることは確かなようである。ミシガン湖に面して平べったいどこまでも広がる土地には季節風が吹きつけ、見通しのいい道路もまっすぐに伸びて、ニューヨークほど密集したビル群もない。いかにも風の通りがよさそうな街には、いろんなものが風に吹かれてやって来て、またいつのまにか風に吹かれて去っていく。交通の街であるシカゴは、運河や鉄道の時代から東部工業地帯と西部農業地帯を結ぶ要所であって、オヘア空港は全米一の忙しさなのだという。ジャズもニューオリンズから北上してきてシカゴにたどり着き、やがてニューヨークに流れていく。そんな「いろんなものが通り抜けていく街」としてシカゴを魅力的に描いた作家がスチュアート・ダイベック*2。愛と友情と熱情と孤独と疎外と眼差しとベースボールとロックンロールと…さまざまな街の側面を盛り込みながら爽やかに、そしてユーモラスに彼が育ったシカゴを描写しているのが1990年に刊行された『シカゴ育ち』だ。短編やさらにごく短い文章が14つ収められていて、戦争を経験した大人がまだ多くいる街には光と闇が見え隠れしているのだった*3。それからおよそ30年が経ち、「このアルバムはシカゴ以外では作れなかった」と目を輝かせるHorsegirlという大学生になったばかりのジジとノラ、もうすぐ高校を卒業しようとするペネロペ、という女の子のトリオが『Versions of Modern Performance』を発表し、今のシカゴで鳴らされる音楽の喜びを若者らしい魂の煌めきで奏でている。しかし、オープニングトラックを飾る『Anti-glory』にはスチュアート・ダイベックと同様に、どうにも光と影の側面が漂っている。ミュージックビデオでは、Horsegirl - "Anti-glory" (Official Music Video) - YouTube それまで内側に閉じ込めていた心情が内圧によって突然爆ぜるような「Dance!」のリフレインとともに、照明が明滅して、陰影をはっきりさせると、不安感となにかしらの暗部をも想起させている。輝かしい表での状況とは別に、背後にずっと広がる裏側では表とは異なる何かがあるようだ。『Beautiful Song』では幾度もの「How does it breathe?」が続き、『Live and ski』に来るとその不安感が救いのない情景を頭の中に描写されることで身体をゆっくりと支配してくる。そのまま『Bog Bog 1』に向かい、ザラついた轟音のなかでひどく憂鬱な夢遊病のような空間を漂うことになる。少しずついくらかの心地よさも感じながらも、でもまだ不安定な心持ちは持続している。瞳を閉じて「Don't let them see you, let them see you」という声かけに耳を傾けると、そのこれまで拒んできた不安感が徐々に力強い自己への確立はと向かっていく。『Electrolocation 2』は『Bog Bog 1』とは違って轟音の中で鳴る電子音がチカチカと希望への道筋を示しているようでもある。その道を一緒に歩んでいく友達を誰も置いてけぼりにしないぜ!とでもいうような『Option 8』に、友情と愛情を感じる『World of Pots and Pans』、安らぎを与えるピアノの囁きに「ギターは死んだ」と名付けてしまえる『The Guitar is Dead 3』にくると、不安感なんてものはとうに忘れてしまっていることに気がついてくる。このアルバムを通して魂はゆっくりと、でもしかし確実に回復してきたのだ。誰もが不安に思いながらほんの少し先にある希望を見つめて歩んでいる。それでもまだ不安は残るだろう。小銭を数え、若者の未来の行く末がどんなものになるかを考えてみる。街にはいろんな未来が散らばっている。スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』に収録されている「右翼手の死」という短編の最後はこんなふうに閉じられている。

もうじき夏休みも終わりだった。大学とか、仕事とか、身を固めて家族をもつとか、ほかのことをする時間が迫っていた。三十五歳を過ぎると、人生の下り坂がどうこうという話がはじまる。四十代に入り、白髪も目につきはじめたフィル・ニークロが相変わらずのナックルでばったばった三振を取っているとか、ピート・ローズも四十二にしてなおヘッドスライディングで頑張っているとかいった話も出てくる。年齢のハンデなんか物ともしないじゃないか、と。けれどおそらく、事実下り坂は訪れるのだ。四十二歳、メッツの一員となったウィリー・メイズが、七三年のワールドシリーズでイージーフライを落球した姿を思い出してみるがよい。 いっさいの優美さをはぎ取られ、それとともに自信も崩れ落ち、途方に暮れた一人の男が、自分のなかに残る子供っぽさを申し訳なく思っているその姿を。すべてがそんなふうにあっけなく終わってしまうのを認めるのは悲しい。でも誰もが知っているように、そういう連中は幸運な部類に属するのだ。たいていは十七になる前に、波に洗い流されてしまうのだから。

スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』「右翼手の死」柴田元幸 訳 53-54頁

大学生になったばかりのジジとノラ、もうすぐ高校を卒業しようとするペネロペというティーンエイジャーはどんなふうに未来を見据えているのだろう。現在から過去への眼差しによって、持ち帰ったピースが豊かな音を形作り、デビューアルバムを世に放った。そして、彼女たちはもう急ぐようにシカゴを去ってニューヨークへと旅立っている。みんなが懐かしさを思い出している間にHorsegirlはぐんぐんと前に進んでいくのだろう。シカゴの街では風が強く吹いている。

*1:オクラホマシティの方が、より風が強い?

*2:スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』柴田元幸 訳 217-218

*3:もちろんシカゴが特別にというわけではない、どこの街にも言えることである