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西川美和『スクリーンが待っている』

スクリーンが待っている

スクリーンが待っている

 

『スクリーンが待っている』は映画監督である西川美和によるエッセイ、『すばらしき世界』がスクリーンに映し出されるまでの過程を書いたものである。そのなかには、彼女が映画といったものへどうやってアプローチしていくのか、昨今の業界がどうであるか、そして、このコロナ禍での映画制作など、スクリーンには映し出されない生の人間の声が記録されている。その他にも、夢日記蕎麦屋ケンちゃん失踪事件なども収録されていて読み応え十分なのです。

「ともだち」という章では、あるスタッフをはずしていただけませんか、とプロデューサーから提案され

承知する、しかありません。おたくの会社が出資してくれるから私は映画が作れるんですし、あなたと一緒に仕事ができなければ、この映画を作るのも、ものすごく難しくなるでしょう。p42

と答えるシーンがある。今、映画をつくることはとても難しいことであるらしい。それは予算がないから、ということもあるのかもしれないけれど、「映画」という存在を作り出すこと自体が、あやふやになってきているのだろう。そして、スタッフへ今回は申し訳ないと告げに行き、そこで、今の映画界には希望がないと言われてしまう。

「でも、お前が望んだやり方だと、俺は十分に下を食わせていけなかったんだよ。いまのやつらはかわいそうでさ。昔はボロボロになるまで働かされても、憧れに見合うだけのものが現場にある気がしてたんだ。生活は最底辺でも自分たちは『映画』をやってるんだ、これは他のものとは違うんだ、ってプライドも喜びもあったからな。映画をやらなきゃ逢えない格のある監督もいたし、役者もいたし。でもそんなのもう、何にもなくなっちゃったじゃん。いまの若いやつは、うまみも憧れも持てないモノのために、俺たちの頃よりさらに安く激務を課されてて、悲惨だよ。こいつら一体、何が楽しくてこんなことやってんのかなあ、って俺から見てても思うもん」p46

次の章「時代」では、ゴールデングローブ賞で最優秀外国語映画賞と監督賞を獲った『ROMA/ローマ』の話に移っていく。Netflix一ヶ月八百円を支払えば小さな画面でいつでもどこでも観ることができてしまう。しかしこれを映画といって良いのか、また「映画」を作るとはどういったことなのか、劇場のスクリーンに映し出すことの意義のようなものがあるのではないかと逡巡し、実際に『ROMA/ローマ』を観ることになる。

四十五分おきに前立腺肥大気味の父親が起きてきてトイレの水を流す音がある。同じく四十五分おきに缶ビールが空になって、一時停止ボタンを押して台所へ立つ。「あけおめ!」と来たLINEに返事を打つ。完全に映画への冒涜の限りを尽くしながら、それでもなお、『ROMA/ローマ』は……これがもう、信じがたいほどに「映画的」な作品なのであった。p56

予算を集め、スタッフを整理し、上からの提案にも応じる。しかし、それでも「映画」を作るのは難しい。しかし、既存の「映画」というのものに拘らない、むしろ「映画」に拘った末に、スクリーンを諦め、スクリーンを諦めたことによって「映画的」なものが立ち上がることもあるのだ。

つまり彼らは、内容を最も映画的に保つために、最も映画的でない公開方法をチョイスしたのだ。なんというねじれ現象!p57

ホームシアターはフィルムのかわりに電子媒体を使用しているわけだけれども、今日の映画館もほとんどがもはやフィルムを使用せずに、電子媒体から直接、スクリーンに映している。映画館と観客という一体化した関係はいらず、もはや時代に適していないのだろうか。もうスクリーンは待っていないのだろうかと西川美和は悩むことになり、「映画」をつくることのハードルはだんだん高くなっている。

映画作りもどんどん窮屈になってきている。「コンプライアンス」という英語の意味を、私は数年前まで知りもしなかった。けれど今は私たちの住む世界でも、その単語を聞かない日がない。映画やなんて、裏社会の人々と区別のつかない愚連隊も同然だという見方はもう古い。p110

俳優がキリンビールのCMに出ていれば、アサヒやサッポロの飲料やポスターは画面から排除され、自動車保険のCMキャラクターを務めていれば、交通事故を起こすシーンもカットされる。こんな風に映画を作っていくしかないのなら、私たちは『七人の侍』や『太陽を盗んだ男』や『仁義なき戦い』や『新幹線大爆破』の興奮には、もう二度とスクリーンでは出会えないことも覚悟しなければならない。p111

「東京都の規則が年々厳しくなって、警察の道路使用許可がどうしても下りないんです」とベソをかかんばかりに事情を説明する若い製作部に対し、「なるほどねえ……」と私が分別ありげな相槌を打って取りなそうとしている横で、「プロデューサーが会社をクビになりゃいいだけだろ」と真顔で笠松さん。きゃっ、愚連隊!!p112

しかし、これもスクリーンを諦めることによって窮屈になることを防げたりするのかもしれない。コロナ禍に入り、「スクリーンは果たして待っていたのか。それがしかしー私の映画が完成するのを待たず、世界の多くのスクリーンは閉ざされてしまった」と回想し、閉ざされたのと同時に、数々の映画作品は、スクリーンを諦め、サブスクリプションを通して人々の家へと届けられた。その動きは急速に早まっている。ホームシアターは映画館のミニチュアであり、たいした違いはないのだ、と言ってしまえば、そうであるかもしれない。しかし、映画館とホームシアターの違いが形作る公共性や共同体であるのするのならば、閉じられた場ではなく、開かれの場であるスクリーンを失わないためにはまだまだ諦めてはならないのだろう。

では、家庭劇場(ホームシアター)と一般の劇場の違いはどこにあるのだろうか。最大の相違は共同体構築力である。p289

加藤幹郎『映画館と観客の文化史』

「映画館と観客は、その二語でひとつのことを意味するのである」(加藤幹郎『映画館と観客の文化史』p35)とするのならば、映画館を失えば、もはや観客はいないことになってしまう*1。スクリーンに映し出されるものが漂白されたものでも意味はないのである。反対に、映画を「読む」ものとして認識するのならば、そこに、観客は存在せず、映画館も同時に消滅する場合もあるのかもしれない。もう映画はある一定の役目を終えたのだろうか。しかし、西川美和は希望を込めて、『スクリーンが待っている』とタイトルにしているのだ。

 

*1:でも、TVアニメ『映像研には手を出すな!』では、その先にも可能性は残されていた