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吉田恵輔『BLUE/ブルー』

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〈BLUE/ブルー〉

もはや理由もなく、倒すことの快感、女の子にモテるためなど青いイメージが拳に纏わりつき、一心不乱に繰り出され、やがてボクシングに収斂されていく。瓜田信人(松山ケンイチ)は挑戦者(ブルー)としてリングに上り続けるプロのボクサーである。ブルーとして立ち続けているということは、それはそのままチャンピオンではないということでもあり、ブルーでなくなるためには勝ち続けれなければならないのだけれども、そうなれるのはほんのわずかであって、基本的に興行に関して無意味なボクサーは挑戦者としてリングに立つことを強いられる。ほとんど誰もが挑戦者であるボクシングというスポーツは、そのために誰でも足を踏み入れることができてしまう。しかし、その青さというものはとてつもなく残酷であり一旦取り憑かれてしまえば離れることができなくなってしまうのである。

佐藤泰志

本作はボクシングの映画であるけれども、瓜田信人、小川一樹(東出昌大)、天野千佳(木村文乃)というこの三角関係を主軸とした物語から、佐藤泰志を感じずにはいられないはずである。そして、ブルーが青春というものと容易く繋がっていくのはそのためだ。鏡越しに千佳を見つめる瓜田。千佳にバンテージを巻く瓜田。一樹が負けることを願う瓜田とそれを知っている一樹。瓜田に、次の試合に勝てたら千佳と結婚することを宣言する一樹。これらが形作る三角形というモチーフが明瞭に青春=ブルーを描いて見せ、ボクシングという身体的な消耗が佐藤泰志のエッセンスを取り込んでいる。佐藤泰志は三角形と労働というモチーフを使って青春小説を描いてきた作家であるけれども、そのフィーリングはたしかに『BLUE/ブルー』にも宿っている。汗と暴力と男と女である。

東出昌大

雨がしぶいて右手の草むらを濡らしているアスファルトの道を曲がり、けやき並木の参道に駆け込む。水を吸った砂利がランニングシューズの底で踏みつけられて音をたてる。

佐藤泰志『草の響き』

佐藤泰志原作『草の響き』で3年ぶりの映画主演に決定した東出昌大。彼がスクリーンに映し出されていることも本作の絶対に欠かすことのできないピースであり、佐藤泰志が宿るのも必然であるのかもしれない。東出昌大は強者ではなく、圧倒的に負けている者の声をだすことが得意な俳優であろう。最後の試合でテクニカルノックアウトされたときに、「まだ、やれるよお、まだやれるってぇ」と情けない声をリング上で響かせたときの弱々しいヴォイスは特別であるし、千佳に荒々しい視線を浴びせ、乱暴な素振りを見せてしまうなどの“弱さ”、“危うさ”を持った佇まいは東出昌大にしか出せないものでしょう。

〈霧の中へ〉

本作は徹底してボクシングというスポーツが脳を揺らすものであることを印象的なシーンとともに何度も示している。このボクシング描写には吉田恵輔が経験者であることが多分に反映されているのだろう。ランタイム107分を通して、その脳のダメージと戦うのが小川一樹である。居酒屋の注文では呂律が回らず、忘れっぽくもなってきた一樹を心配する千佳は病院に連れて行く。レントゲンを見た医者からは普通の人よりも白くなっている部分が多く、慢性的になってくるようだとボクシングを続けるのは難しいだろうと告げられる。一樹はそんな宣告に罵声を飛ばし、負けるまでは引退しない(負ければ辞める)と千佳と約束をする。そのまま続けられることとなったボクシング人生のなかで、脳は打たれ、揺らされ続ける。一樹が真っ白な霧の中へ侵入して行く様子が背後からのショットで映し出されるとき、千佳の不安は増大し、一樹の脳へのダメージはより深刻になってくる。このように本作はいくつもの背中のショットで支えられている。

楢崎(柄本時生)が認知症を患っている祖母と並んで帰るシーンの背中を撮らえたショットもまた脳のイメージをより鮮明に描いている。ボクシングを続けるということは、この脳へのダメージとともに並び進む(寿命を縮める)ことである。それは自らの脳だけでなく、隣り合う他者、相対する誰かの脳を揺らしてしまう(傷つけてしまう)危険をも孕んでいる。楢崎は練習のスパーリングで相手の脳を揺らし、病院送りにしてしまう。それはいつもの練習の過程でも起こってしまうことであり、しかし、認知症を患った祖母がスーパーマーケットで羊羹を盗んでしまっても、初犯であるからという理由で許されたこととは到底比べられないほどに、重くのしかかることでもあった。一樹と千佳を重ねて見てしまうこともできるだろう。

〈持つ者と持たざる者〉

ここでの持つというのはそれはそのまま“才能”ということでもあるのだけれど、本作のスクリーンにおいては、“危うさ”である。本作での危うい存在は小川一樹であり、彼は身体的に恵まれ、ボクサーの才能があるから強いのではなく、“危うい”から強いのである。そうであるから瓜田からのアドバイスを聞くも自らの直感を頼りに相手をノックダウンさせてしまうことができてしまう。戦うほどに消耗していき、いつ死んでもおかしくないという状況もまた一樹を強くしていく。一方の瓜田は基本がしっかりしていて、バランスよく鍛えられているのだけれども、しかしそれゆえに不安定でない。“危うさ”がないのであって、そうであるから勝てないのかもしれない。物語後半、瓜田のボクシング研究ノートを見つめ、「この人は強いよ…」と呟く一樹であったが、こんなにも多くのものを持ってしまっているために瓜田は弱く(しかし強く)、反対に一樹は持っていないために強い(しかし弱い=危うさ)。

〈やがて一本の道に収斂されていくこと〉

『BLUE/ブルー』は挑戦する者の映画であると同時に、負ける者の映画でもあり、そして、途中で辞める者の映画でもある。自らの肉体だけで戦い、消耗し続けるこのスポーツで、誰もが最後までやり続けることは難しく、むしろ途中で終わってしまうことの方がほとんどである。勝つことができずに、プロのリングに上がることができずに、身体的なダメージのために、そんな辞める者がカメラに収められるはずであるのだけれど、しかし、この映画のなかには辞めた者が映し出されることはない。そのことの決意は本作のラストに全て注がれており、2本に枝分かれした道を走っていた一樹と楢崎が、1本の道に合流し並んで走っていく。その真っ直ぐに伸びた道を走っていく2人の背中を撮らえることで描かれる。ボクシングから離れたとしても、否が応でも再びボクシングという1本の道に招き込まれてしまい、決してその魅力からは逃れられないのであった。吉田恵輔は負けて終わる者を映すことに徹底的に抗ってみせる。そのあとのラストシーン、瓜田がシャドーをしているカットで終わる『BLUE/ブルー』はボクシングの魅力、快楽を描き切り、負けて終わる人を描かない信念に貫かれているのである。誰もがBLUE/ブルーでいられるように。