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沖田修一『おらおらでひとりいぐも』

f:id:nayo422:20230507041207j:image沖田修一の最新作を観た。文句なしに今年のなかでもお気に入りになる良さ。沖田修一は『南極料理人』『キツツキと雨』『横道世之介』など、ゆったりしたカットの連なりで世界を作り上げる巧者なわけだけれど、本作でもその持ち味は抜群で、家の中での動線や息をするなどの所作といったところまで意識が行きとどいていて、画の中で俳優を生きさせることに力を注いでいる。主演が田中裕子で、その若き日を蒼井優を演じる。脇を固めるのは、東出昌大濱田岳宮藤官九郎青木崇高ともう良質さは確約されているわけだけれど、その期待をヒョイと上回る素晴らしさだった。沖田修一フィルモグラフィーに新たな傑作が追加されたのです。

〈寂しさ〉

「子どもは巣立ち、夫にも先立たれた独居老人・桃子さん(田中裕子)が寂しさを慰めるために思考のなかでイメージ(寂しさ1(濱田岳)、寂しさ2(青木崇高)、寂しさ3(宮藤官九郎))を作り出してしまって〜…」というあらすじなのだけど、その1人で暮らすという寂しさの演出が秀逸。なんたってそのシーンのどれもが孤独ではないように見えるからだ。寂しさ1、寂しさ2、寂しさ3が桃子さんの周りでわちゃわちゃやっていて、「おらだばおめだ」とテーブルの周りをぐるぐると小躍りするシーンは楽しさに満ち溢れている。しかし、そうであるからこそハッとしたときにその虚実が入れ替わることになると寂しさというものがありありと降りかかってきてしまう。桃子さんの声が蒼井優(かつての桃子さん)や寂しさたちの声で脳内再生されることでそれらの声が外には表出されていなくて孫の「おばあちゃん、どうして踊ってるの?」という何気ない問いかけで簡単に引き戻されてしまう。ロングショット、ゆったりした長めのカットが能動的に孤独を見ることをもたらしていてその寂しさを観客も実感することとなるのだ。そして、寂しさというのは決して独りでいるときにだけ感じるものではなくて、むしろ人に囲まれた場でこそ浮き上がってくるのだということが画の見せ方としてあらゆる箇所に映し出されている。病院での待合室や図書館でのシーンがその寂しさの本質のようなものを描きまくっている。しかし、それでもその寂しさの線が世界や時間のあらましへと収斂されいくことで、この寂しさのなかにも暖かいものがあると、「おらおらでひとりいぐも」と進んでいく運動をまたさらに感動的にしている。

〈古代の生物と歴史〉

冒頭で地球で暮らしてきた生物の歴史が映し出されて、そのつながりとして桃子さんが生きている現代へとやってくる。桃子さんは図書館で古代生物の本を借りたり、模写をしたりなど、地球の歴史へと想いを巡らす。何層も何層も地球のプレートを剥がしていく、それは人間の思考のあり様を解き明かしていくことと共鳴して、その土地で生きていた生物へと連結していく。孤独というものをものすごく俯瞰で見ることで、自立というものを強固にしていく、その力強さが白眉だ。

〈おらとわたし〉

故郷を想う、その想いが思考の中で東北弁を用いて組み立てられていく。

東北弁とは最古層のおらそのものである。もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである

桃子さんは“わたし”と言うときには着飾った自分が現れてくるのに対し、“おら”と言うときには最古層の自分が現れるのだと話す。方言がオリジナリティを表すものとして発話されるときに最も個人が顕わになり、思考が運動へと紐付いていく。それを柔らかな手ほどきで描き出す素晴らしさよ。

主語は述語を規定するのでがす。主語を選べばその層の述語なり、思いなりが立ち現れるのす。んだがら東北弁がある限り、ある意味恐ろしいごどだども、おらが顕わになるのだす

〈いろんな世界〉

思考の層を剥がして、あらゆる年代へと想いを巡らせる桃子さんは、自分の子ども時代、息子たちが秘密基地で遊ぶ空間、夫・周造との懐かしい生活などなど様々な時空へと思考を飛ばしていく。その思考の旅時の果てに、目の前に亡くなってしまった夫・周造(東出昌大)がひょっこり姿を表す。目には見えないものがこの世界には確かに存在していて、それが思考の層の一瞬でも混じり合いのなかでムクッと眼前に立ち上ったりする。今は別々の世界にいるだけで、きっと世界はたくさんあり、混じり合ってわたしがいて、世界がある。そうであるから、列車の窓外にアノマロカリスが漂っていたり、マンモスが桃子さんのすぐ後ろを歩いていたりする。40億年が連なって今につながるのであるから、今は別々だけれど、離れてしまった線はやがてまたどこかで収斂して、出会うことができる。思考の森の中を真っ直ぐに伸びた道。そこを手を繋いで2人で歩くという直線運動がことさら感動的に映されている。

〈継承〉

気の遠くなるような時間をつないで、つないで、おめがいる。

命をつなぐというモチーフが壮大な歴史を伴いながら、個人の生を煌めかせる。それが方言という受け継がれてきたもののオリジナリティの発話として表出され、個人が世界に立ち上がるというなんとも素晴らしい継承のモチーフだ。目玉焼きを焼く、湿布を貼る、薬を飲む、図書館に行く、病院に行くといった繰り返されるモチーフが確かに命をつないでいるのだ、という時間を紡いでいるその美しさが沖田修一の手によってゆったりと映し出されているのがいい。最後のシーンにも、この継承のモチーフはふんだんに盛り込まれている。孫が「お母さん、怒る時、方言がでる」といった言葉から連綿とつづく命の継承が現れている。そのあとで、孫が持ってきた人形を直すという運動で受け継いでいくことを連動させていく手さばきも見事だ。

〈カメラと沖田修一フィルモグラフィー

周造はカメラを持っている。今をフィルムに収めようとするカメラというアイテムは沖田修一フィルモグラフィーにたびたび登場するものであり、例えば『横道世之介』でもカメラは登場していて、今から過去を振り返るものとして機能している。この過去を振り返るというイメージは『おらおらでひとりいぐも』にも引き継がれているわけだけれど、『横道世之介』が「これから何者にでもなれる存在としての現在は何者でもない存在」であるのに対して、『おらおらでひとりいぐも』の桃子さんは「何者かでいることが終わった存在としての現在は何者でもない存在」として描かれている。『横道世之介』が未来へと向かって無限の可能性が開かれていく物語であるのに対して*1、『おらおらでひとりいぐも』が描くのは“老いること”であるから、無限の可能性というものとは縁がない物語になっていくのかもしれない。しかし、『おらおらでひとりいぐも』、沖田修一の凄みはそんな人間の命の道程という既成事実をヒラリと裏切ってとんでもなく美しいストーリーを描いてしまうことだ。それを孫の「おばあちゃんはいいよね、自由で」といった無邪気なセリフに託してしまうのもさすがである。人間は老いる、道は狭まり、寂しさというものが押し寄せ、可能性といったものは希薄になっていくのかもしれない。けれど、そうではないと沖田修一は柔らかな語り口で囁くように訴えるのだ。『おらおらでひとりいぐも』も紛れもなく無限の可能性が詰まっているフィルムなのだ。古代生物、目には見えていない様々な世界を思考するということ、その世界の交わりのなかで生きている私、その私がつながっていくという感覚、いろんなものが折り重なって、何者でもなくなった存在はどこへでもいける。その無限の可能性が、何度目かの図書館での誘いをようやく承諾するという小さな一歩で描かれたりなどのなんとも優しいシーンが印象的だ。そしてまた同じような生活へと帰る。そんな日々に無限の可能性を落とす。なんと素晴らしい映画だろうと思う。


星野源 – フィルム (Official Video)

カメラでいうと沖田修一監督作に星野源『フィルム』というものがある。これもまた素晴らしい。真面目に生活を送っている者への眼差しがある。『おらおらでひとりいぐも』でも桃子さんの何度も目覚めるシーンがあったように、このミュージックビデオも朝起きて、カーテンを開けて、通勤する様子が映し出される。しかしながら、その映像の中にはゾンビがいて、普通の日常といったものとは少し違う。にもかかわらず、星野源は窓外のゾンビをまるでハエを叩くかのようにあしらったり、わざわざゾンビをどかして改札を通過したり、とゾンビといったものを意識せず普通の生活を心がけようとする。なんとも愛らしいミュージックビデオである。『おらおらでひとりいぐも』桃子さんも、今日とて目を覚まし、目玉焼きをつくり、図書館に行って、病院に行って、またご飯を食べて、テレビではいろんなニュースが流れて、来訪者があるかもしれない、そしてまたご飯を食べて。そんな日々が美しい。「おらおらでひとりいぐも」沖田修一の傑作がまたこの世に生まれたのである。

笑顔のようで 色々あるなこの世は
綺麗な景色 どこまでほんとか
フィルムのような 瞳の奥で僕らは
なくしたものを どこまで観ようか
電気じゃ 闇はうつせないよ
焼き付けるには そう
嘘も連れて 目の前においでよ
どんなことも 胸が裂けるほど苦しい
夜が来ても すべて憶えているだろ
声を上げて 飛び上がるほどに嬉しい
そんな日々が これから起こるはずだろ
わけのわからぬ ことばかりだな心は
画面の事件 どこまでほんとか
どうせなら 嘘の話をしよう
苦い結末でも 笑いながら
そう 作るものだろ
どんなことも 消えない小さな痛みも
雲の上で 笑って観られるように
どうせなら 作れ作れ
目の前の景色を そうだろ
どんなことも 胸が裂けるほど苦しい
夜が来ても すべて憶えているだろ
声を上げて 飛び上がるほどに嬉しい
そんな日々が これから起こるはずだろ
すべて憶えているだろ これから起こるはずだろ

星野源『フィルム』

*1:横道世之介』の映画の構成としてはそこに狭まっていく視点も入れて重層的なカタルシスを伴っていたのがすごかったわけですが