『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』をNetflixで観た。監督はウディ・アレン。主演をティモシー・シャラメが務め、その脇をエル・ファニング、セレーナ・ゴメス、ジュード・ロウ、ディエゴ・ルナなどが固めるといった大変に豪華な布陣だ。主人公であるギャツビー(ティモシー・シャラメ )は、恋人のアシュレー(エル・ファニング)が著名な映画監督に大学新聞の取材のためにマンハッタンへ行くことになったのをきっかけに、週末をニューヨークで過ごすことを計画するのだが...というあらすじのラブコメディ。始まって5秒でウディ・アレンの映画だとわかるように、なによりもよく喋り、歩き、音楽がかかり、要所要所でのナレーションが物語をつくっていく。ああ、私は今ウディ・アレンの映画を観ているのだな、という喜びのような、懐かしさのようなものを感じるのだ。
さて、ウディ・アレンの50作目である本作は#MeToo運動から再び議論との対象となった彼自身の問題のためにアメリカでの上映は無期限延期となり、出演俳優であるティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスが出演料を受け取らないといったことにまでなっている。そんな問題を抱えながら甘美な雨が降るなかをを歩く『レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』は現代ドラマとしての注意が行き届いていないさまがやや残ってしまっている感は否めない。パラノイア気味な男性脳という感じなのだけれど、作中でキュートな演技を見せてくれるエル・ファニングだったり、ティモシー・シャラメとセレーナ・ゴメスのシーンだったりには良いところがあるし、重鎮ヴィットリオ・ストラーロによるおしゃれな撮影とか、悲劇が起こってからの時間の経過で笑えてしまうといったウディ・アレンらしいコメディにもやはり良さがあるにはあるのです。しかし、ウディ・アレンが投影する女性観や願望のようなものを作品に加えれば加えるほど、そこには目を瞑ってしまいたくなる欠点なんかを露わにしてしまっているだけであるかもしれないという恐ろしさ。そこにある人間としての危うさのようなものを抱きしめてしまいたい、という感情が立ち上がってきてしまう部分に、他人事とは思えないひとも多いんじゃないだろうか。だがしかし、そこに雨を降らせていかなければならない。最終的に作中においてギャツビーは曇り空の下を走る馬車での
ギャツビー「行き交う往来の中でも 部屋の静寂の中でも (あなたを想っている)」
というすれ違う会話をきっかけに別れを選択し、そして、田舎の大学のは帰らず、チャンがいるニューヨークに残ることにする*2。ときめく雨が降り、濡れるティモシー・シャラメを見ていると、なんだかどうにも嫌いになれない映画なのも確かなのだが、どうだろう。