昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

クリント・イーストウッド 『リチャード・ジュエル』


www.youtube.com

 1996年アトランタ五輪会場近くの公園でコンサートが行われ、多くの人がステージを見つめ、歌い踊る。そんな中、警備員のリチャード・ジュエルはみんなとは異なる方向を向き、不審なリュックサックを発見する。ライブスタッフに避難するようにと呼びかけるが、たったひとりの市民が言っていることを信じようともしない。警察が言っているのなら信じるよ、とジュエルに投げかける。ジュエルの予想は当たり、そのリュックサックには爆弾が詰まっていた。法執行官への憧れから得た知識と正義の心を持った正当な手順によって、事件を最小限に防いでみせた彼は一躍、英雄として祭り上げられる。しかし、FBIは第一発見者であるジュエルを確固たる証拠がないにもかかわらず、性格や過去の経歴、行動によって犯人であると決めつける。事件からわずか3日後、事件の第一容疑者として実名報道されたことで英雄は、みんなが見ているステージ上に立たされる。メディアは行動や経歴などの一面にだけカメラを向け、大衆もカメラを向けられステージ上で困惑するジュエルを犯人であるように思ってしまう。避難を呼びかけたたったひとりの正しい声は軽くあしらわれてしまったのに対して、同じくたったひとりが書いた誤った記事は新聞という媒体を通して、また多くの人の目に触れたというだけで真実のようなものになってしまった。そんな間違ったカメラや視線から身を守るようにジュエルはカーテンを閉めるが、それでも捜査は続く、ジュエルと母親が暮らす家の中のプラスチックボウルや子供時代に見ていたビデオテープなどあらゆるものに捜査対象としての番号を記し持ち去っていく。伽藍とした室内でジュエルの固有性である食べることを出して弁護士のワトソンと喧嘩させ、またスニッカーズ*1というアイテムを使ってイーストウッドはジュエルの固有性、ひとりの人間を浮き立たせる。

f:id:opara18892nyny:20200205183159j:image

 早撮りのイーストウッドらしく、どんどんと話は進んでいく。「ハドソン川の奇跡」「15時17分、パリ行き」「運び屋」など実話に基づいた作品をただの再現ドラマに終わらせないのは、無駄なミスリードや回想を排し、かつて西部劇などに出演していたイーストウッドらしいセリフが散りばめられているからだろう。

反撃の準備は?

弁護士ワトソンのたった一言で、第三幕*2に切り替えてしまうイーストウッド節はどうにも映画を観ているという興奮を引き出してしまう。物語はなんとも示唆的な大勢の人が同じ方向を見るコンサート場面から始まったが、物語の後半、個人と個人が向き合って座るレストランで、我慢を続けたジュエルの願いが届き、涙を流しながらサンドウィッチにかぶりつくジュエルを映し出すイーストウッドの映画力に感嘆せざるを得ない。真実は個人と個人の対話によって生じるのだと、ジュエルとワトソン、母親との関係はイーストウッドの願いのようでもある。

 しかし、みんなが同じ方向を向いて観ている映画館においても、何が真実であるのか、真実でないのか、しっかりと観客が考える必要がある。映画館を出たあとで、各々がいろんな方向から観るものに意味があるのだ。カメラが捉える画面に映らないものに我々は注意しなければならない。

 

*1:ハドソン川の奇跡」でも出てきた

*2:ジュエルが事件を防ぐところを第一幕、英雄から容疑者になるところを第二幕、反撃開始からを第三幕とする