昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

『シング・ストリート』と『ザ・コミットメンツ』と『1980年代アイルランド』

正確な数値は出ていませんが

アイルランドからロンドンへ渡る若者が急増

なけなしの金を手に船に乗る

故国にない希望の光を海の向こうに見て

 テレビのニュースがそう伝え、仕事がなくなった父親と週3日のパートの母親、大学を中退した兄、大学で建築を学ぶ姉、本作の主人公コナーによる家族会議でシング・ストリートの物語は始まる。舞台は1985年の経済的に困窮した大不況のダブリン南部にあるインナーシティ地区、希望の光のない家庭で育ち、私立学校から無料の公立高校へまさに“移民”のようにコナーは転校させられる。

 ここでまず、アイルランドの移民と貧困の歴史から見てみよう。1845年から48年にかけてジャガイモの凶作による大飢饉が起こり、アイルランド社会経済の落ち込みが進んだ。しかし、大凶作,飢餓はたしかにアイルランド人の対外移民を促す直接的契機にはなったが,それはけっして対外移民の根本的な要因ではないということが、現在は主流であるらしい。実際には、ナポレオン戦争終息後にイギリス、アイルランドを襲った景気後退が一因だとするものもある。また、イギリス人貴族の多くがアイルランドの広大な土地を所有し、そこで貧しいアイルランド人が小作人として働いていたのだが、イギリス人貴族の多くはイングランドに暮らし、アイルランドの所有地を訪れることはなかった。小作人が地代を払えない状態になり、地代が払えずに飢え死にしてしまうなど、当時の政府の対応が問題であるとするものもある。これら飢饉の前後にも移民の大洪水が起こる原因はあったと結論づけられているようだ。初期のカトリックアイルランド移民は、奴隷として連れて来られた黒人を別にすれば、少数派移民であり、祖国はイングランドに征服され、移民してきた新天地アメリカでも差別されたアイルランド移民には苦難の歴史がある。

 イギリスの支配、戦争、紛争、ジャガイモ飢饉などから起こる貧困。そしてそれから逃れるように移民へと向かうアイルランドの歴史は根深いようである。そしてその歴史は1970年代のジャック・リンチの経済政策ミスなどによって1980年代に引き継がれていく。その年代の若者を「シング・ストリートSing Street」は描いている。

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カバーはよせ

パブでも結婚式でもどこでもカバーバンドが出るが

奴らオヤジは真剣に音楽をやったことなんかない

曲を書く根性もない

ロックは覚悟を持て

 コナーの兄が言う。まさに困難を音楽で乗り越えようというセリフだ。貧困のコナーが移民としてシング・ストリート高校へと入っていく姿が少しずつ変化する容姿でもって繰り返されるのは、アメリカ、イギリスへ渡った移民たちのアイデンティティの固持のようである。また、オリジナルの音楽を奏でることで成功を手にしようという心意気はアイルランド人監督のジョン・カーニーの挑戦そのものだ。f:id:opara18892nyny:20200203154217p:image

 ジョン・カーニーはアイルランド、ダブリン生まれの映画監督であり、「ONCE ダブリンの街角でOnce」「はじまりのうたBegin Again」など、音楽映画を撮ってきた。ライブシーンによって大きく魅せるのではなく、曲の録音やミュージックビデオの撮影だったりと音楽制作の過程を映し出すことが特徴だ。先述した学校に入る場面が繰り返され、少しずつ色がついてゆくのは、地道に繰り返し録音し、撮影する音楽制作に示唆的でもある。「シング・ストリートSing Street」でもコナーと兄、バンドメンバーとの音楽制作の過程を映し、それが1人の女の子を振り向かせるためというミニマムさがジョン・カーニーっぽさを孕んでいる。

 同じ年代のアイルランドを描いた音楽映画に1991年製作の「ザ・コミットメンツ」がある。この映画はイギリスの映画監督アラン・パーカーによって製作されたもので、「シング・ストリート」と同じダブリンを舞台にしたものだ。ほとんどが「シング・ストリート」と同じ設定にもかかわらず、「ザ・コミットメンツ」は仕事のない労働者階級の若者が主人公であるが、湿っぽくどんよりとした家族会議なんてものからは始まらない。歌い、踊り、子供が走り回るパーティの場面から物語は幕を開ける。イギリス人監督、アイルランド人監督の違いや年齢によるアイルランド認識の違いによってここまで違うのかと驚いてしまうが、絶対的に前進していくところは同じである。

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アイルランド人は欧州の黒人

中でもダブリンっ子は黒人の中の黒人だ。

 「ザ・コミットメンツ」の主人公ジミーはアイリッシュジョークを代表する“死んだ鍋”のように、皮肉たっぷりの宣言でバンドを発足する。登場人物の性格や背景を描写するまでもなく、行動によって物語を進行させていくのは、どこかスキができてしまうが、そのかわりにソウルミュージックのもつパワーや勢いによってどんどん進めてしまう。灰色の世界で泥の水たまりを靴下で歩くようなことを描かないのは、希望を映す上でとても重要であるのだろうか。

 一方で「シング・ストリート」は「アンジェラの灰」でも靴が壊れ水たまりの上を裸足で歩いたように、黒い靴が校則であるからという理由で茶色い靴を没収され、水たまりを歩いた。「ザ・コミットメンツ」とは違い、動きが少ないながらも、未来派を選びとり、少しずつ進んでいく。

今度のビデオ

男が桟橋にいる

美女が横を通って灯台へ

30分しても彼女は戻らず

男は捜すけどいない(コナー)

人魚で海へ帰ったのよ

都会でボロボロになって

帰りたいと願ってた

友達のいる故郷へ(ラフィーナ

 まるでアイルランドのセルキー伝説を連想させるような会話だ。やはりこのような細部の部分において、イギリス人監督ではなく、アイルランド人監督によって作られた映画であることが確かめられるのだろう。そしてもう一つアイルランド人監督ジョン・カーニーによって製作されたのだといえる部分がある。「ザ・コミットメンツ」は早期の段階で彼らの音楽が認められ、仲間割れからそれぞれの人生へと向かうところまでが描かれた。しかし、「シング・ストリート」はさらに、ロンドンへと渡ることが描かれる。また、曲自体も内輪の空間で認められただけであって大人による評価は得ていない。それでも作った曲を持って移民するのは、ジョン・カーニーがダブリンで過ごした少年時代を半ば自伝的に描いたものとされる「シング・ストリート」であるために、1980年代アイルランドに生きた人間として、移民、また貧困というものは切っても切り離せないものであるのだろう。

 ジョン・カーニーは小さなボートでコナーとラフィーナが海を渡るシーンに曲をかける。

今でなければいつ行く?

探さないで何が分かる?

決して後ろを振り向くな

今でなければいつ行く?

今でなければいつ成長する?

探さないで何が分かる?

決して後ろを振り向くな

今でなければいつ行く?