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乗代雄介『旅する練習』

旅する練習

旅する練習

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2021/01/14
  • メディア: 単行本
 

「歩く、書く、蹴る」という“練習の旅”。千葉の我孫子*1から鹿嶋まで歩いていき、姪が合宿所から借りたままの文庫本を返す。その道程で、小説家である叔父は人気のない風景を描写し、その横で姪の亜美はリフティングを練習、また入学前の中学校から出された日記の宿題をする。叔父の文章の最後には102、53、100、173…と亜美のリフティングの記録が残される。その風景描写と確かなリフティング回数のマーキングが道程を形作ることで、まさしく練習が旅していく。この旅の中で幾度も出てくる“練習”という言葉は、『旅する練習』の前作『最高の任務』にも登場している。

昼の最中、何度でも田に舞い降り羽を音もなくたたんで水の中に目を落とせば、ぬるそうに積もった泥へ小さなものの動きを予感する。自分が何ものか問うまでもなく青鷺が青鷺である限り続くその行為は、彼が立派に獲物を捕らえられるようになる前の幼鳥だった頃、人目には「練習」に見えたことだろう。しかし、それがいつ練習でなくなるのかわからないなら、彼は今なお、そしてこの先も、練習の真っ最中ではないかp116

乗代雄介『最高の任務』

青鷺が幼鳥だった頃にしていた獲物を捕らえる練習、その先に獲物を捕らえることに成功する機会がやってくる。しかし、それが練習の中に生まれた成功であるのだとしたら、それは幼鳥だった頃とあまり違いはないのもしれない、と。この練習という営みが連綿と続いてき、そのなかで確かな煌めきなどは生まれていくわけだけども、本作においての練習の真っ最中である運動は“書く”ということに他ならない。そして、それに終わりはなく、練習は旅をするように続いていくわけである。書くという営みへの信念のようなものが随所に現れている本作の“残す”、“残る”、“終わらない”といった思いは物語の最後まで持続される。

私しか見なかったことを先々へ残すことに、私はー少しあせっているかも知れないがー本気である。そのために一人で口を噤みながら練習足らずの言葉をあれこれ尽くしているというのに、そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たちだという事実が、また私をあせらせる。p97

書いたことはなくならないp113

「これが最後の練習だな」

「この旅ではね」p159

これらの過去から未来へという眼差しに貫かれたものは『最高の任務』でも言及されていて、

相沢忠洋の発見によって日本に旧石器時代があったことが証明されたということが教科書には書かれていますが、相澤さんは、そういう喜びが、一家団らんが一万年前の日本にあったことを実感するということを第一にしてきた人でした。こうした姿勢は「考古学にあまりに心情を交えすぎる」と批判されることがあるそうです。でも、そういう人でなければ見つけられないものがありますp170

『最高の任務』

そこでは相沢忠洋のことを引用し、誰かが過去から未来へと繋いでくれているということへの憧憬と敬意が記されている。やはりここらへんのことからも、『旅する練習』という小説は『最高の任務』と合わせて一冊となっていると言っても良いのかもしれない。そこに豊かな人々の営みがあったと推しはかることができるように、書くという運動を通し残していくことで、伝えていく。そういう人がいる。それは希望である、と。本作は、明確にコロナ禍という舞台設定をしたことによって、そのことをより力強くしている。

私は、相澤さんのような人がいることがうれしくてたまりません。生活の中の「これは大切に使おう」なんてとてもささやかな、でも確かな喜びを、自分が死んで土に埋もれてすっかり骨も溶けてしまった二万年か三年後に、その物だけを手にとってちゃんとわかってくれる、そのために人生を捧げるたった一人の人間が現れる。それは、それだけで何も心配いらないくらいの希望です。p170

『最高の任務』

その希望である想いの継承はその周辺にある凡ゆるものを繋いでもいくのである。それはあまりにも楽しいことであり、コロナ禍という暗闇に負けないほどの眩さを放ち人生を照らしていくのかもしれない。

「あたし、カワウがサッカーに関係あるなんて思ってなかったし、てゆーかそもそもカワウなんて知らなかったけど、全然関係ないことなかったんだよ。あたしが本当にずっとサッカーについて考えてたら、カワウも何も、この世の全部がサッカーに関係あるようになっちゃう。この旅のおかげでそれがわかったの。まだサッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい」p138

亜美の言葉は、みどりさんという旅の途中で出会った女性をも繋いでいく。

「大切なことに生きるのを合わせてみるよ、私も」p145

小説の最後、あることが明かされるのだけども、そのことがあった後も、続いていくというフィーリングで貫かれているのは、やはりそこにこそ希望を見出しているからである。決して、想いは無くならないだとかいう、そういう陳腐なものではなく、書くという営み、そして、書いたものが無くならないということにある。個人から、“書く”ということが独立して、それがそのまま世界に残るわけである。そうであるから亜美とした約束は破棄されることなく、二十三センチのモレリアも玄関に置かれ、練習は旅をし続けるのである。

終わりの方に書いてある「鳥の博物館に付き合う」という約束は今も約束のままだ。だから、二十三センチのモレリアは綺麗に磨かれたまま私の家の玄関にある。p168

 

*1:我孫子から進んでいくというのも実に作り込まれたプロットであり、その土地にまつわる志賀直哉にも言及されているのは、やははり志賀直哉『流行感冒』を意識したものであるだろう。『流行感冒』は1919年に発表された小説であり、世界的な流行となったスペイン風邪を題材にしている。現在のコロナ禍と同様なものとそこに生きる確かな人々の営みが描いてある。『旅する練習』では、そこから歩いてゴールを目指す、鹿嶋(良くなるだろう未来)へと進んでいくことが描かれることとなる