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レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』

f:id:You1999:20221001174803j:image第六章にいくまでかなりつらい読書体験である。本当につらい*1。読んでいるだけでこんなにもつらいのだから、書いているレジーさんはもっとつらいのだろうな、と思う書籍が『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』である。とにかく短い時間で摂取したいと映画を早送りし、書籍の要約されたYouTubeを視聴する。それが単なる趣味的な知的好奇心によって促進されていれば良いのだろうけれど、このファスト教養というものの歯車が駆動されている原理が他者からの目配せによってであることが気にかかることなのだろう(そんな他者の視線は本当はないのかもしれないのだけれど)。であるからして、それは自己成長だけでなく、脱落したものへ排他的である新自由主義的な価値観を内面化してしまうのでは?自己責任的な空気と結びついているのでは?というのがレジーさんの問題意識である。だから、本書は『ファスト教養』と冠されているけれど、“ファスト教養について”の話ではない。その周縁にある社会の話となっている。

新自由主義的な価値観へと駆り立てられてしまう不安感というものが本書では挙げられているのだけれど、同時にこれは新帝国主義的なものでもあるのだと思う。勝者以外はどうでも良く、それは努力してこなかったからだという新自由主義的な価値観を、“強者が”不安感を抱える人々に植え付けその人の土地を奪っていく。競争しているのではなく、競争させられているというのに近いのかもしれない。みんなで競争しているように見えて、実際のところは強者による植民地拡大的自己啓発を内面化させられてしまっているように感じる*2。なので、それに最適化するためのファスト教養的な成長への邁進(効率的な差別化)は当然受け入れることはできないし、しかし、かといってそれに抗い、自らの土地を奪われないために鎖国すること(根源的な内省)p192もよりよい処方箋とはなり得ないだろう、と。それは自己啓発的なものにあまりに耐性がないと、『花束みたいな恋をした』の麦くんが一気に自己啓発的で新自由主義的で新帝国主義的な価値観に土地を奪われたようになってしまう可能性があるからだろう(耐性がないからこそむしろ、というのはあるかもしれない)。そうであるからこそ、「自己啓発ではなく知識」が必要だという結論はその通りなのだと思う。理想的な、いわゆる「古き良き教養」にこだわるのでもなく、効率に最適化するのでもなく、その間を探っていこう、と。中間を探っていくためには「知識」が必要なのだろう、と。

そして、「知識」がない状態で「知識」に嗅覚を研ぎ澄ますには、無闇矢鱈にトレンドを追わずに「好きを見つける、好きを続ける」p201という姿勢がポイントになるのではないだろうか、という提案は納得感があるように思える。好きを見つけて突き詰めていく過程で、自由になっていく(千葉雅也『勉強の哲学』)。しかし、その「自由」というものによって枠組みの外へと外れてしまうことの不安感にもレジーさんは寄り添っている。自由には責任が付帯され、現状ではその前に“自己”がつけられるのだから。

「既存の枠組みから自由になること」と「既存の枠組みの中で戦える知識の習得から逃げないこと」の両輪を回すことが、ファスト教養に抗いながら、ビジネス的な要請に応えていく「ポストファスト教養の哲学者」なのではないか。p210

 

「好きを見つける」ということに関して、レジーさんがポップミュージックに興味を持ったときのエピソードはなかなか示唆的であるように思える。

もともとポップミュージックに興味を持ったのは「小学五年生の頃クラスの友人が自分のまったく知らない言語で会話していて、それが当時はやっていた音楽についての話だった」のがきっかけだった。p206

「学校」というワードはとても重要だろうし、特に小学校、中学校などはさらに大切になってくるだろう。そこには、めちゃ勉強ができる子もいるだろうし、勉強が苦手な子もいるかもしれない。スポーツが得意な子もいれば、苦手な子もいる。音楽が好きな子もいれば、嫌いな子もいる。教室の隅っこで漫画を描いている子もいれば、塾の参考書をガリガリ解いている子もいるかもしれない。みんなそれぞれに習熟度が違って、でも、一応みんなのペースで同じ教室で勉強をしなければならないし、校庭で体育をやったりしなくちゃならない。体育祭や文化祭に参加しなくちゃならない。各々がどう感じているかはわからないけれど、しかし、一応“みんなでいっしょに”やらなければならなかったのだ(もちろん良くない側面は多分にあるわけで個性を大切にする枠組みをつくることも重要ではあるけれど)。そんな学校という空間には偶然性がたくさんあり、友人の会話を偶然聞いたレジーさんがポップミュージックを好きになっていくという過程はとても素敵なことだと思う。そして、共生していくことを学んでいくのであった。

自分が「その人であった可能性」について思いを馳せるというのは、社会の大きなつながりの中に自分を位置づけることに他ならない。このつながりのあり方について参考になるのが、吉野源三郎君たちはどう生きるか』である。 主人公のコペル君が百貨店の上階から眼下に広がる人々の流れを目にした時の「人間て、 まあ、水の分子みたいなものだねえ」という感覚と、それに対する叔父さんの「ほんとうに、君の感じたとおり、一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きているんだ」という回答は、人はだれしも相互作用の中で生きていること、そしてたとえ誰かと差がついていてもそれは「波」の中で生まれる一時的なものだということを雄弁に伝えてくれる。p219

それがいつの間にか、高校、大学を経て、新自由主義的な価値観を内面化するようになり、淘汰されていくものは努力していないなどといったことを言及してしまう人が現れるようになる。果たして、学校的な空間へと戻るにはどうすれば良いのだろうか。そのことは、本書でも触れられているような、マイケル・サンデル『実力も運のうち』や政治学者・中島岳志「利他プロジェクト」p217が掲げる問題意識に繋がる部分があるのではないか、と思う*3。「その人であった可能性」を、社会を見つめる必要がある。

そこで、10月27日放送の『マヂカルラブリーANN0』で野田クリスタルがHUNTER×HUNTER』『チェンソーマン』『ONE PIECE』の話をする中で、その面白さを共有したい!と思い

学校行きたいっす、僕

2022/10/27『マヂカルラブリーANN0』

と言っていたことは、そのことに対する処方箋になりえるかもしれない、とすこし思った。レジーさんのエピソードのような、誰かの「好き!」が偶然、誰かに繋がり、「好き!」をまた呼び起こす。野田クリスタルが「学校に行きたい」と思ったように、ポップカルチャーにはそういった力があるのだと思うわけである。共有したい、と。そして、これがファストではなし得ない繋がりになるのではないだろうか、と。かつて、いろんなひとがいたあの空間に行きたい、と。みんなで話したい…!という喜びの分かち合いを求めたくなるのが、ファスト教養ではなしえない、根源的な教養の、ポップカルチャーの持ちうる力だろう(無理やり摂取した嫌いなものじゃなくて、好きなものを共有したいでしょうよ)。ファスト教養によって得たもので、どれくらい他者と話したくなるだろうか。

無駄なことを一緒にしようよ

SMAP『JOY‼︎』*4

無駄な寄り道をしながらも、ひとりではいけないところへ、みんなとなら辿り着けるかもしれない。強制的に協力し合おうなどということではなく、なんとなくでも、私はこの社会で生きているのだなという実感が必要だろう。とりあえず、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』を読んでどう思った?という雑談から始めてみるのが良さそうだ。

余談として。サッカーのところはとても興味深く読みました。サッカー選手としての本田圭佑は大好きなのだけれど、近年のこととか、槙野智章の例の件とか、そこらへんに及んでいくと確かに、うーん…という感じのところはある。誤った競争社会への言及として河内一馬『競争闘争理論: サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』がありますので、ぜひ。サッカーに興味のない人も面白く読めると思います。刊行記念にたくさんの対談をレジーさんはされていましたが、私は河内一馬さんと対談するべきだと思っていますー。

 

*1:つらいのだけれど、世代的に実感が伴わないところも結構ある

*2:競争しないほうがいいというわけではなく、自律的な態度であるのか?ということ

*3:このときに、123頁でも取り上げられていたようにベーシックインカムがケアとしても用いられるかも知らないのだけれど、このままの論理ではケアにはなり得ないだろうということには同感である。なぜならそれは承認の問題が解決されないからだろう

*4:本書では、SMAP『JOY‼︎』が取り上げられているけれど、SEKAI NO OWARIRPG』も文脈にあいそう。

「方法」という悪魔にとり憑かれないで
「目的」という大事なものを思い出して