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フローリアン・ゼレール『ファーザー』

映画『ファーザー』日本版予告編 - YouTube 本作の画面設計のほとんどに忍ばせてある“扉”のモチーフは一体なんであろうと考えてみる(扉は「THE FATHER」というタイトルクレジットとともに映し出されているのも示唆的だ)。そう、それは思考の中に無数にある選択肢だ。ロンドンで独り暮らしをするアンソニーは老いによって記憶がだんだんと曖昧になってきているわけで、いわゆる認知症が進行している。私たちは通常、選択肢が、“扉”の数が絞られているがために自由に世界を行き来できる(ある程度の制限があるために自由でいられる)*1のだけれども、本作のアンソニーのように、目の前にたくさんの“扉”を用意されてしまうと、一体どれが正しいものであるのかを判別できず、困惑してしまうのである。娘の顔、その夫、看護師などなど、すべてが一つに定まらず、選択肢があまりにも多い。この点において、アンソニーの思考はとても自由なのである。想像力が膨らみ、目の前にたくさんの世界を見ることができる。しかし、圧倒的な自由であるために不自由であり、過剰な可能性というものが、世界を一つに定められず、無数にある世界が混在してしまう。そのアンソニーが混乱に陥る過程を観客が追体験するように設計された冒頭の巧みなプロット(信頼できない語り手)によって、私たちはあっという間にこの映画の虜になってしまうのだ。その複数ある自由な世界が混在する様子が97分という無駄のない見事なランタイムの中で繰り返される。扉を開くとそれはそのまま病院へつながっていたり、別の日に開くと物置であったり、そのほか幾度も印象的に扉を映し出しながら。「私は…誰なんだ」と、もう自分自身が誰であるかを判別できなくなると、看護師から教えてもらった“アンソニー”という固有名によって、今度は子ども時代の扉を開く。このとき、じんわりと老人から子どもになってしまうアンソニー・ホプキンスの佇まいに少し恐ろしくもなってしまうだろう。首をすくめ、背中が縮こまり、目や口の動きまで、すべてが愛らしい子どものそれになっているのだ。映画は最後、ゆっくりとカメラを移動させ、窓外を映す。最後の葉っぱが落ちてしまうというアンソニーの言動とは違って、生命力に満ち溢れた緑が風に揺られる様子が映し出されて、映画は終わる。本作の映画的快楽は扉というモチーフによって支えられていたのだけれども、カーテンを開ける、窓外を見るといったこれらの運動もまた重要なのであって、何度も朝を迎え、窓外を眺めるといった日々の積み重ねが葉っぱの一枚一枚になって、生い茂り、揺れている。なんとも素晴らしい生の肯定である。今作が監督デビュー作であるというフローリアン・ゼレールであるけれども、41歳にして、現代のフランスで最も良く知られた劇作家であるのだそう。作家、劇作家ということであるから、これを機に映画を撮ることに向かうかどうかはわからないけれども、ともかく次作が待ち遠しい映画監督のひとりになったでしょう。

*1:ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』