出会う前の18歳の夫の姿を見てみたいという願いを叶えるために2080年から送り込まれたロボットQ10(前田敦子)。
字っていうのは同じなんだけど
一人ひとり違うもんなんだよ。
深井平太(佐藤健)が書いた文字を複写するQ10に人間の固有性を教えてあげる。文字ひとつにもその人の固有性は現れる。それだから、ひとはアイドル、バンド、二次元、電柱、鉄塔などなど様々なものを好きになるし、人間なにを好きになったっていい。みんな違うのだからいろんなものを好きになって当然だ。だから人間よりもロボットを愛してしまう、そんなことも簡単に起こりうる。Q10の視点を通して、平太は日常に“世界”が生まれることを目撃していく。なれるものになるんじゃなくて、なりたいものになろうとする人間の鼓動にも、それぞれの音があることをQ10は録音する。
教室という多種多様な存在の中に、新たな視点を挿入させるという物語はよくあるものだけれど、それが世界の危機にまで及ぶセカイ系のようなところにまで発展していくことに、2010年にここまでのTVドラマがあったのかと唸ってしまった。物語は、新海誠『君の名は。』のように、“目に見えないものを信じることができるのか”ということに進展する。役目を終えたQ10との別れが訪れ、平太は2080年の自分から
Q10を愛するように、世界を愛せよ
とメッセージを受け取る。そして、平太は父親に「母ちゃんのことを愛するように、世界を愛せる?」と尋ねてみる。
ていうか、それ俺もうしてるかも。
母ちゃんを愛するがごとく、世界を愛しちゃってるんだよ。
俺的には。
つまり、母ちゃんを愛するってことは、母ちゃんが産んだお前たちを愛するってこと。
ということは、母ちゃんを産んだ母ちゃんと父ちゃんも愛するんだよ、俺は。
母ちゃんに親切にしてくれる人も愛するし、その親切な人に親切をしてくれる人も愛する。
母ちゃんに意地悪だった上司も、まわりまわって今の母ちゃんの人格を作ってると思えば、それはまた愛するべきなんだよ。
母ちゃんを成り立たせてるもの、すべてを愛す。
うん。
それだよ。
Q10と過ごした日々の記憶が徐々に薄れてしまい、何がQ10と平太を繋ぐのか*1。愛する、信じるという途方もない美しさをテーマにし、何かを失ってポッカリ空いた空洞にもそこには大切なものがあった証拠なんだと、満たされていない空洞に愛を見つけてしまう豊かさが感動的だ*2。模試の判定や進路*3、残したい永遠、友達、恋人、悪かったと認められることや素直に助けてと叫べることの難しさ、生きることの素晴らしさ、すべてを包括して、エールを送る。
悪いのは僕のほうさ
君じゃない
堺正章「さらば恋人」
まさに「会うは別れの始まりなり」である。会えば別れる。人間には必ずあるその事象に、悲しみだけを見出すのではなく、たしかに喜びや幸せや愛があったことに注力する木皿泉の筆致の素晴らしさ。『野ブタ。をプロデュース』や『昨夜のカレー、明日のパン』と同様に、日常に潜む大切なものを言葉ですくいあげていく。そして、『すいか』での誰にも居場所はあるんだよという肯定的で励みになるメッセージのように、多様な存在を認めてくれる。
信じれば、愛すれば、そこには存在していなくても存在させることができてしまうと祈るラストに、“目に見えないものを信じることのできる”人間の美しさを優しく願う、とても良い人間賛歌ドラマである*4。
もうすぐ妻とはお別れだ。
でも、俺がいると思ってる限り、妻の笑顔もまた、この世からなくならない。
いるかどうかわからなかったQ10が、70年想い続けて、本当にいたように。
今は隣で妻が、お茶を飲みながら言っている。
愛も、勇気も、平和も、この地球上にあると思えば、きっとあるのよ、と。
18歳の俺に言いたい。
Q10を愛したように、世界を愛せよ。
今は見えなくても、自分を信じろ。
いつか目の前に、お前が信じたものが、形をもって現れる。
その日まで。