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羊文学『our hope』

f:id:You1999:20220404034651j:imageすべてのひとが幸せであるようなそんな世界でないのならば壊れてしまえばいい。すべてのひとが心地よく暮らせないそんな世界ならば無くなってしまえばいい。そんな世界の風景をその美しい瞳に映し出す必要はない。そんな世界で鳴る音を聴く必要はない。もっと心が満たされる素敵な音がきっと世界のはずれにあるはずなのだ。『若者たちへ』(2018)まではそういったフィーリングによる理想的な未来への希望と現実世界との絶望による摩擦が轟音となって心の入り口を塞ぎ込み、誰かの侵入を許そうとしないようでありながら、その隙間から塩塚モエカの希望を諦めたくない祈りのような歌声が切実に届いていた、届けようとしていたのであった。もはや世界は美しくなろうとするのをやめてしまっている。そんな世界で傷つく必要はない。もう終わりなのだ、と。それでも…それでも…。アルバムは『エンディング』から始まり、その次には『天国』と並んでいる。遠くへ行ってしまった〈きみ〉について考えている。きっとそっちの方が美しい場所かもしれないね、と。でも、僕がダメでもきみは生きていくのだし、君がダメでも僕は生きていくのだし、そして、僕らは生きていくのだし……暗闇の部屋でうずくまり黙り込んでしまうかもしれない誰かの背中にそっと寄りかかる。この美しくない世界はいつの日か美しくなるときが来るのだろうかと『若者たちへ』は

ワクワクするような未来で繋ぐかい?

『天気予報』

などの世界へいくつものクエスチョンを投げかけて幕を閉じているのだった。この世界で生きていれば『きらめき』もあるし、『ざわめき』もある。この世界はクソであるはずなのに、「一番綺麗だ」と思う瞬間がある。しかし、その束の間、やっぱりクソであると気がつくことになる。でも、さっきまではあんなに良かったはずなのになぁ、とため息が出る。この並存する相反する感情を抱えることに悩み、迷い、戸惑う。そして、その結実として、羊文学はメジャーデビューアルバム『POWERS』で「あいまいでいいよ」という言葉で示したのであった。「あいまいでいいよ」はなにも優柔不断にフラフラとしているのではなくって、その迷いや戸惑いを受け入れようとすることであった。ひとまず、「本当のことは後回しで/忘れちゃおうよ」。その途中で悩んでいるのがいいんじゃないかなあ、と。希望と絶望の軋轢に思い迷いながら、なんだか、そのふたつじゃないところに、きっとどこかに存在している、まだ見えていないあいまいなところに手を伸ばすことが人間にはできるんじゃないかなあ、と。目に見えるものだけがすべてじゃない。目に見えないこと、本当は存在しているのに見えなくなってしまっていること、存在していないのに見ることできてしまうこと、そんな想像力を働かせることができる、それこそが私たち人間の“POWER”なのだという、見えない存在について歌う『ghost』という楽曲が最後に置かれているアルバムがメジャーデビューアルバム『POWERS』なのであった。そこにいるのに見えない誰かを見ようとする。

さて、今作、メジャー2枚目となった『our hope』は『hopi』という楽曲から始まっている。“ホピ”はアメリカ大陸最古の民族の名前であるらしく、平和の民とも呼ばれているのだという。しばらくの間、平和について考えていた塩塚の頭の中になんとなく“ホピ”という言葉が常に存在していて、最初はアルバムタイトルにも採用していたのだけれど、民族についてのことを歌おうと思っているわけではないので、ある一曲のために使用するにとどめたらしい。しかし、ホピにはみえざる霊の出現の神話なども言い伝えられているらしく、前アルバム最後の楽曲『ghost』からのバトンを渡す良い役割にもなっているだろうと思う。見えないものを信じていく力、そのテーマは引き継ぎ、アニメ『平家物語』OPの『光るとき』にこの『our hope』の主題をおいている。それは

何回だって言うよ、世界は美しいよ

という宣言と同時に

永遠なんてないとしたら
この最悪な時代もきっと
続かないでしょう

という「最悪な時代」であることもまた認識していることであった。『若者たちへ』(2018)は中途半端な改善を拒み、すべてが劇的によくなることを求め、その達成があまりにも難しいことをなんとなく察するとそれはもう死を選んでしまえるかもしれないという切迫があり、それでも先へと歩んでいかなければならない心に優しくタッチしていたのであった。深く絶望しながら。しかし、『our hope』を一聴したとき、『若者たちへ』とちがって、少しずつ良くなっていくことを受け入れようとしているのだな、というふうに思えた。いま、この世界は美しくないかもしれないけれど、ほんの少しずつでも螺旋状に良くしていくことができる。そして、その良くなっていった先の未来でまた巡り会おう、と。今日は救えなかった〈きみ〉をいつか遠い先の未来で救うことができるかもしれないのだ、と。それが「この最悪な時代」の唯一の希望であり、この世界が美しいことの理由なのだ、と。今作のアルバムジャケットには塩塚モエカが車窓からわずかな希望を見つけるというコンセプトがあるらしい。車は走る。「ワクワクするような未来で繋ぐかい?」という過去の問いかけに、未来から返事をかえす。深く絶望しきっている〈きみ〉へ向けて、未来から「世界は美しいよ」と便りを出す。それはきっと届いているのだろう。わたしたちもまた未来からの声を聴く。最後のパーティーへと急ぐ女の子も、通奏低音のように流れる違和感とネオンによって無理やり明るくなっている都市で見えない電波を受信する人々も、きらきらと反射した美しい光をぼんやり眺めながら足るを知れないわたしたちも、物質的には豊かに溢れ満たされているのに、なんだかストレスフルな感覚があるわたしたちも、みんなが共有する大きな物語の消失と、でもかすかに繋がっていたいとお伽噺のような夢を見る誰かも、屋根の上に登り、遠くに行ってしまった〈きみ〉に向けて手を伸ばす誰かも、ずっと先の未来から届く声を聴く。未来の他者への責任を放棄し、わたしたちは甘美な誘惑に手招きされ、わがままに突き進むことをやめられない。

今ならばまだ間に合うのに

わたしたちは過去に持っていたとても素敵な美しい希望を手放してしまった。手放してしまったことすらも忘れてしまっている。『OOPARTS』には「場違いな人工物を意味する、それらが作られた時代の人間がもっていた技術や知識に照らすと存在し得ない人工物のこと」という意味があるらしい。まだ見たこともない希望を追い求めて進むのでなく、かつて持っていたはずの大切な何かを思い出そうとするのが羊文学の旅なのだろう。急速に終焉に向かう。そう、そもそもそうなるようにはじめから決まっていたのかもしれなくても。

それでも絶望に支配されず、曖昧なままにして虚空にどうにか希望を見ようとしよう。見ることができるはずなのだ。羊文学はどうしたってやってくる明日の先に広がるのが闇だとしても、行け、行け、と奮い立たせる。『マヨイガ』(そしてEP『you love』)は、これからの未来の存在の人々へ向けたものであった。「君のまま光ってゆけよ」。もう劇的な変化など期待できない世界で、一歩ずつ進んでいかなければならないときに、羊文学はそれを少しずつ受け入れようと決意しながらも、しかし、「もしも魔法が使えるのなら、君はどんな奇跡をここに望むの?」とも問いかける。少しずつ歩んでいくのは苦しい。また夢を見る。車窓からどんな希望を見つけることができるのだろう。わたしたちの希望とはどんなものなのだろう。アルバムジャケットにいる塩塚モエカは真っ直ぐに〈きみ〉を見ている。

 

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