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マイク・ミルズ『カモン カモン』

f:id:nayo18858:20221103115451j:image20センチュリー・ウーマン』(2016)からおよそ5年、マイク・ミルズは新作『カモン カモン』で主人公にホアキン・フェニックスをスクリーンに映し出すことを決めた。『ジョーカー』(2019)の次に出演する作品を慎重に選んでいたというホアキンにとって、本作が2年ぶりにスクリーンに戻る作品である。『ジョーカー』はある意味レッテルを貼り付ける映画であったように思う。彼はこんな色の人間なのだ。自分はこんな色の人間なのだ。このような色の人間はたちまちこんな行動を起こすだろうか。この色は私の中にも眠っているだろうか。そうか、私は彼なのだろうか。いや、私の中にはこんな色は存在しない。頭のおかしなこんな色は狂っているのだ。あいつは狂ったやつなのか。私は狂っているのか。リアルとは別にインターネット上にもうひとつの自分を作り出すかのように、顔を真っ白く塗りつぶす。その自らへの固有性の剥奪は簡単に他者の顔をも塗りつぶすことにつながっていく。「私は大丈夫じゃないかもしれない」と声を上げることが出来ず、それを塗りつぶしていく。その白は誰かに塗られたのか、自分で塗りたくったのだろうか。相手がどんな色なのかが先行して、人と人の対話という形は緩やかに回避されるだろうか。もしくは激しくぶつかり汚い色ができあがるだろうか。もしくは美しい色ができあがるだろうか。印象的な色を塗りたくることに世界はもう疲弊しているだろうか。それでも塗るのをやめられずにいるのだろうか。多様性は広がっているだろうか。多様性によって分断されているだろうか。「白黒にすることで日常から切り離された“物語性”を示したかった」と語るミルズは、本作をモノクロで描くことに決め、色によって支配された世界の混乱や徒労感から解放してくれる。まずは彼らが表面上でどんな色であるのかは気にする必要はないのだ、と。そんなモノクロの世界で、ホアキン

これから君にいくつか質問する。正しい答えも間違った答えもない

と忠告し、子どもたちにインタビューを開始する。大丈夫、ここには何の色も塗られていない。どんな色でも大丈夫なのだ、と。映画が始まる。私たちはモノクロのスクリーンを見つめ安心しているのだけれど、そのスクリーンの中にある子どもたちはさまざまな色に囲まれながら、言葉を振り絞っている。そんな多くの子どもたちがなんとなく世界は良くない方向へと進んでいっているようだと直感している。自然は壊れ、人間は壊れ、沈んでいく世界に不安に思っている。複雑な世界に「どうして?」と素直に尋ねる。

子どもがそう尋ねるとき、伊藤亜紗『手の倫理』の冒頭に置いてあるエピソードが思い出される。アメリカ中西部のウィスコンシン州の街中で物乞いをする女性とすれ違ったとき、子どもがいる状況で何かよくないことに巻き込まれたら大変だ、と伊藤亜紗は息子の手をぐいと引いて、通りの反対側へ避けてしまう。すると、息子は「なぜ、お母さんはあの人を助けなかったのか。なぜ、かわいそうな人にあんな仕打ちをするのか。ぼくがもう病気になったり障害を持ったりしたら、みんなに冷たくされるのか。あの人は、すごく悲しそうな声で「ソーリー」と言っていたじゃないか。あの声がぼくの心に残って離れない。とても悲しい。苦しい」(p35)とパニックを起こしたように泣き出すのだった。伊藤はあれこれと説明を試みるものの、息子は泣きやまない。さて、どうしたらよかったのだろうか。そのことをきっかけに伊藤はもやもやっと浮かび上がってきた、後からやってきた悩みによって、“道徳”と“倫理”の違いについて考え始めることになる。そして、一般的な「〜すべし」というような規範でなく、個別具体的な環境を鑑みて「できるできない」を検討し、「二者択一のように見えていた状況にも実はさまざまな選択肢がありうること」(p40)に手を伸ばそうとする、それが倫理的な態度であり、いま、この世界で求められている事だろう、という結論にたどり着くことになる。倫理学者のアンソニー・ウエンストンは『ここからはじまる倫理』においてこう説明している。

この場合にはこうしなさいと道徳的に説いたり指図することは、一般的に言って、倫理の目的ではない。その真の目的は、考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げることにある。世の中にはそんなに単純で明確なことなどめったにないということを認め–––これは倫理の根本である–––、それを踏まえて、困難な問題を考えていく、そのために倫理はさまざまな可能性を示すのである。だから、進むべき道を求めて格闘し、不確かなままに進んでいく、それなしには倫理はありえない。

不確かで曖昧な霞に歩みを進めていくことの難しさと美しさ。このことはまさにマイク・ミルズがインタビューにてこたえた「明白さと闘う」と共鳴するところだろう*1

考え方の可能性を広げるための方法として、「ことばを慎重に選ぶ」ということをあげるウエストンや人類学者であるラトゥールの“社会”という言葉の使われ方に対しての問題意識を例に挙げながら、伊藤は“多様性”という言葉への違和感について言及する。街に溢れる多様性キャンペーンとそれと同時に繁殖する分断の進行。みんなちがって、みんないいは他の人はどうでもいいに転換しかねないだろうか、と。多様性は不干渉と表裏一体になっている。ウエストンは他人との干渉を拒むことを肯定し自己弁護する相対主義に陥ったとき、反社会的なものになると言う。

相対主義の決まり文句「他人のことに口を出すべからず」は、それゆえ、反社会的な態度となる。思考を停止させるだけではない。 社会全体が関わってくる問題の場合には、そこにおいてどれほど意見が異なっていようとも、なお理を尽くして、お互いを尊重しつつ、なんとかして協調していけるよう道を探らねばならないのに、この決まり文句によって、そこから目をそらしてしまうのだ。(……) 倫理とは、「他人のことに口を出すべからず」が問題解決として役に立たない–––どれほど意見が分かれていようとも、一緒に問題を解決していかなければどうしようもない–––まさにそのような問題に照準を当てたものだということになる。私たちは、ともに生きていかねばならない。だから、なおも考え続け、語り続けねばならない。これこそが、倫理そのものであり、倫理的にふるまうことにほかならない。

これのことをふまえて、伊藤は「人と人のあいだにある多様性ではなくて、一人の人の中にある多様性」のほうが重要のではないか、と考えるようになる。自己のうちにある多様なことがらすべてをまずは自分が尊重することが大切なのではないか、と。

このことは、裏を返せば、「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面 がある」という前提で人と接する必要があるということでしょう それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。この人は、いま自分に見えているのとは違う顔を持っているのかもしれない。この人は、変わるのかもしれない。変身するのかもしれない。いつでも「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくことこそ、重要なのではないかと思います。p50

マイク・ミルズ『カモン カモン』も人と人の間にある多様性をモノクロにすることによって不明瞭にし、ひとりの中にある多様性、無限性を描き出そうとしているのだ。「お母さんはストレスが溜まると大きめのステーキを焼いてひとりで食べてるんだ」というジョニー(そしてマイク・ミルズ)の眼差しの愛おしさ。ジョニーがジェシーを子どもではなくひとりの個人として関わり合おうとすること。時間によって薄れていく記憶による齟齬、しかし時間によって解決されることもあること。他者との分かり合えなさ、それを受け入れ、抱えて共に先へと歩んでいかなければならないこと。

平凡なことを不滅にするのは すごくクールだ

モノクロの世界に佇んでいるひとりの内にあるたくさんの色を見ようとする。聴こうとする。未来へと向かうために世界に必要なのはいつだってそんなことなのだ、とマイク・ミルズ『カモン カモン』は教えてくれる。どこに落とし穴があるかわからず、靄がかかった不安な先へと歩んでいくのなら、誰かと手を繋いでいる方が安心なんじゃないかなあ、と手を差し伸べてくれるのである。