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Netflix チャーリー・カウフマン『もう終わりにしよう。』


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チャーリー・カウフマンによる傑作ムービーがNetflixから配信されている。まずもって、ほとんど全編にわたって音楽がついていないのがいい。喋る声、吹雪く音、車が走行音とか、足音とか、それだけで映画を構成しようみたいな、一旦最初に立ち戻って、音だけで勝負しようみたいなのが素晴らしい。

ストーリーはなんとも曇っている。理解させないようにチャーリー・カウフマンが仕組んでいるのでつかみにくいのだけれど、何かを夢想こと、それは決して流暢なものでなくてよく、ぶつ切りで、あやふやであって、しかし、何かが起こっていることはわかるという、その映像の重なりこそが想像世界としてのチャーリー・カウフマンのムービーであることが一貫して示されていていい。。物語に現れる、高校の用務員として働くジェイクはとても孤独であるようだ。それはもう透明人間であるかのように…。

透明人間 そう呼ばれてた
僕の存在 気づいてくれたんだ
厚い雲の隙間に光が射して
グラウンドの上 僕にちゃんと影ができた
いつの日からか 孤独に慣れていたけど
僕が拒否してた この世界は美しい

乃木坂46君の名は希望

誰かに見つけてもらいたくて、存在に気付いて欲しくて、この世界を美しいと思いたくて、ジェイクは夢を作り出す。見るのではなく、“作り出す”のだ。静かな空間。人や建物はあまり見当たらない、空と木々と大地とフェンスだけ、道路と未舗装の路側帯を頭の中に描いていく。話し相手も必要だ。赤い帽子とダッフルコートがよく似合う彼女を実家に連れて行こう。チャーリー・カウフマン作品は一貫して、想像世界のストーリーだ。熱心に夢想すること。それだけが唯一の救いであるかのように凭れていく。まさに理想と妄想はかみひとえといったように、本作は虚と実の線をあやふやにして我々の心に侵食してくるのだ。

 

分離されることによって生じる孤独や無意味さとどう闘っていくのか、または寄り添っていくのかというのは現代の最も困難な命題だ。高校の用務員であるジェイクが孤独にテレビ画面を見つめるシーン*1は現代を生きる人々のモチーフである。本作にも引用されているギー・ドゥボールスペクタクルの社会』が示す、すべてが虚であり、見せ物であるという、その只中にいる我々の代表者としてジェイクはもがいている。

1 かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

18 現実の世界が単なるイメージに変ずるところでは、単なるイメージが現実の存在となり、催眠的行動を生み出す有効な動機となる。

29 スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ[=代理-表象され(se représente)]、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである。スペクタクルとは、この分離の共通言語にほかならない。観客どうしを結びつけるものは、彼らを孤立状態に保つ中心自体に対する彼らの不可逆的な関係だけである。スペクタクルは分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせるのである。

30 凝視される対象(それは、観客自身の無意識的活動の結果なのだが)に対する観客の疎外は次のように言い表される。観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己の姿を認めることを受け容れれば受け入れるほど、観客は自分自身の実在と自分自身の欲望がますます理解できなくなる。活動的な人間に対するスペクタクルの外在性は、客観の身振りがもはや彼自身のものではなく、自分に代わってそれを行っている誰か他人のものであるというところに現れてくる。それゆえ、観客はわが家にいながらどこにもいないような感覚を覚える。というのも、スペクタクルはいたるところにあるからである。

219 スペクタクルとは、世界の存在ー不在に取り憑かれた自我が解体することによって生じる自我と世界との境界の消失であるが、それはまた、生きられた真理をすべて、外観の組織化によって保証された虚偽性の現実存在の下に抑圧することによって、真ー偽の境界をも消し去ってしまう。それゆえ、自分にとって日常的に疎遠な運命を受動的に被っているものは、さまざまな魔術的に訴えることで、錯覚的にこの運命に抵抗する狂気の方へと追いやられることになる。

もはや全てが記号と成り果て、オリジナルなものなんてなく、ただ再生産と消費をくり返すことしかない消費社会で、ただ生きるというのはあまりに苦しい。そうであるから我々を希望を持とうとする。

全ては死ぬ。それは確かだ。でも人は常に死ぬより生きようと希望を持つ。物事が好転するだなんて人間の幻想なのに。本当は好転しないと知っているからだろう。全ては不確か。でも人間だけが死は不可避だと知っている。他の動物はただ生きる。人間はムリだから“希望”を発明した。

シミュレーションを生き抜くうえでの希望をジェイクは何パターンも夢想する。スペクタクル化されてしまった現実に対抗するために夢想するのだけれど、そのスペクタクルもまた、現実なのであって、虚と実の境界線が消失してしまうことによって、もはや希望を手にすることはできなくなってしまう。

スペクタクルの世界はとても厳しい。降りしきる雪を死や世界を覆ってしまうシステムの比喩としよう。車の真上だけに降ってしまうほどに、雪は決して解放してくれない。これは本作にも引用されているアンナ・カヴァン『氷』の侵食のイメージを引っ張ってくる。世界を覆い潰そうとする氷(死)の力は自分自身の力(自分の妄想)であり 、氷の世界に囚われた登場人物たちを苦しめていく。しかし、その苦しめられている登場人物たちもまた、自らが作り出した虚像なのであって、「もう終わりにしよう。」とスペクタクルの世界を圧迫しようとして、氷を押し付けていく、または雪を降らしていくことで、苦しめようとすればするほど、現実世界の自分自身も苦しめられていくという、スペクタクルの登場人物とそれを妄想しているジェイクの結びつきをみせているように思う。しかし、それに抗おうと、アンナ・カヴァン『氷』で主人公がひたすらに少女を追い続けるように、想像世界のなかでジェイクがルーシーを連れて歩むことは彼にとって最も美しい瞬間であり、侵食から逃れるただひとつの可能性なのだ。苦しむ自分自身を助ける存在を召喚して(結局それも自分でしかないのだけれど)、もう終わるだろうこの想像世界でただただ安堵したくて妄想するのであるが、その想像世界には現実の内容が復元されているだけであって、妄想もまた現実にすぎない。たとえば、ルーシーの顔がジェイクが途中で観ていたゼメキス映画の女の人の顔になったり、子供の頃からのたくさんのモノで溢れかえっている。

窓外には絶対的な酷寒が、氷河期の凍った真空を拡がっているばかりだ。だが、ここ、明かりのともった私たちのこの部屋は安全で暖かい。私は少女の顔を見る。いかなる不安もなくほほえんでいるその顔。恐れも悲しみももうそこには見られない。少女はほほえみ、さらに身を寄せ、この家の中、私とともにいることに充足している。

私は恐ろしいスピードで車を走らせる。逃亡しているかのように、逃亡できると思っているかのように。だが、私にはわかっている。逃亡の道はない。氷から、私たちを最後のカプセルに包み込んでゼロに近づいていく時間の残余から逃れるすべはない。

アンナ・カヴァン『氷』

「もう終わりにしよう。」ときっと何度も唱えながら、ジェイクは逃げていたのだろうけれど、逃げるところがない。アンナ・カヴァン『氷』それ自体が、求めている何かの周りをぐるぐると彷徨い続けるというカフカ『城』と似ているから、『もう終わりにしよう。』もまたカフカ的な不条理のエッセンスを内包している。どれも雪降らせて移動の煩わしさを、そして、車の中という窮屈ですぐには離脱できないという居心地の悪い空間をつくっている。

アンナ・カヴァン『氷』には、長官と呼ばれる人物も登場し、“私”と“長官”が“少女”を追い求めるという格好になっているのだけれど、物語後半の『オクラホマ!』のダンスシーン引用によって、そのホモソーシャル的な構図に対しても意識的だとわかる。『氷』でも

長官は私の行動を妨げる様子はいっさいなく、私を見つめている。そんな長官を私も見つめ返す。長官の顔を、その傲岸な骨格を見つめる。眼と眼が合う。

説明しがたい形で、私たちの視線が交錯した。私は私自身の胸像を見ているような気がした。突然、私は極度の混乱に飲み込まれた。どちらがどちらかわからなくなった。

私は私ではなく長官なのだという感覚が絶え間なく襲いかかってくる。一瞬、実際に長官の服をまとっている感覚にさえなった。

アンナ・カヴァン『氷』

といった気味の悪いシーンがあったりするのだけど、ルーシーの「別な男といないと ちょっかい出される。まるで誰かの物みたいにさ」といったセリフや、『ビューティフル・マインド』的なラストの演説シーンでの「1人の女性を手に入れ、僕の物と呼ぼう」というジェイクのセリフに向かって、「終わりにしよう。」という嘆きが切実に響いているようにも感じる。

後半のダンスシーンからはそれまでなかった劇音楽がついている。ジェイクもエキストラもみんな老化した化粧をしていて、明らかに作り物である。それでもジェイクは何か高揚感のようなものを得ているらしい。何かを見てもそれはすぐそのあとになって、あれは捏造でした、フェイクでした、となってしまう現在、本当かどうかわからないもので溢れかえるなか、青白い背景に侵食されていくジェイクのなんとも言えない佇まいには何か“生”の美しさや、シミュレーションと成り果てた人生が終わることへの安堵のようなものがあったのだと思う。

 

*1:そこから他者とのつながりを見せてくれる湯浅政明『映像研には手を出すな!』はやっぱり素晴らしすぎる。ちょースーパーアニメだ