中尾広道というたった1人で映画を撮り続けている人がいる。家族に愛想を尽かされたり、借金をしたり、生活を破壊しながらも、映画を撮るということに向き合っている人である。そんな彼が懸命に映し出そうとするのは、人間の“生”だ。ゆったりと、しかし着実に日々粛々と歩みを進める人間の営みを丁寧に、そっとカメラに収めていく。草木が揺れ、水の波紋が広がるなどの誰もが目にしているだろうに、誰もが気にも留めない瞬間を大切に、ゆっくりと過ぎていく時間の一部として収めていく。2015年のぴあフィルムフェスティバルにノミネートされ、2016年の調布短編映画祭で奨励賞を受賞した『船』という作品のとあるシーン。
「だからな綺麗な川にでも離したろ、と思うんやけどな、大力(だいりき)暇やったらついて来てや」
「おう、ええで、俺、毎日、日曜日みたいなもんやからな」
「ははっ、せやなあ」
「じゃあ、奈良にでも行こうや」
「ああ、奈良ええよなあ」
「せやろ?泳げんで?」
「ええなあ」
「あっ、俺も行きたい」
「おう、じゃあ、みんなで行こうや」
「行こ行こ」
「うんうん」
友人との会話。家で飼っているメダカが増えてきてしまったから川に離しに行こうや、と夜の街を歩きながら話す何でもないものである。抑揚のない、真っ直ぐな細い線のような発声が独特のリアルを内包している。そう人間が生きるということは、こんなものが積み重なってできているのである。ただ声を出して、それが相手に伝わる。仲の良い友人なら尚更だ。脱力し切って「ええなあ」、こんなもので良いのである。2017年にイメージフォーラム・フェスティバル、ぴあフィルムフェスティバル、横濱インディペンデントフィルムフェスティバル、2018年に第64回オーバーハウゼン国際短編映画祭(ドイツ)にノミネートされた『風船』は全く、たった一言の会話も出てこない作品なのだけれど、そこには言葉にならない(言葉以上の)生命の変遷が誠実に映されている。花、水草、フウセンカズラ、うどんなどなど、様々なものを接眼レンズで観察して、ミクロの視点に想いを馳せる。何もがありふれていて凡庸だけれど*1、それをよく見てみると、そこにはあらゆる固有性や未来がある。それらにはまだ到来していない時間を想像していくと、ふわふわとフウセンカズラが風船となって、夢を描いていく。メダカが気球に乗って、うどんを食べに行く。荒唐無稽なストーリーであるように思えるかもしれないのだけど、夢のような未来の話である。どんな未来があるのかを想像して見えてしまえば、そこには確かに存在するのである。
フウセンカズラが枯れ、種ができ、メダカが子を産み、かつての彼らも、種、子メダカであったように、彼らの過去が未来となって映し出される。誰かの過去は誰かの未来であり、誰かの未来は誰かの過去かもしれない。そんな円環をぐるぐるとしながら、個人的な人々の営みは続いていくのである。この映画は永遠と続いていく誰かの物語を切り取った、わずかな一部であって、個人的な体験の一部分である。10年経っても、100年経っても、きっと誰もがその一部を覗き観たいと思っているのではないだろうか。6月17日までの公開のようです。
*1:フレームイン、フレームアウト、構図など、いろいろと凝っているのが面白い