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クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』

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グラン・トリノはウォルトの分身だ。

 イーストウッドはDVDのメイキングでそう語った。「グラン・トリノ」は異なる文化、民族との共生、対話、結びつきを描いたものではない。多種多様な民族が混在して暮らしている都市、多民族国家アメリカ合衆国でのひとりの男の物語である。

 フォードの自動車工を50年勤め上げたポーランドアメリカ人のウォルトは退役軍人の堅物な老人だ。そして、彼の宝物であり、分身がグラン・トリノである。しかし、時代は変わった。様々な国から移民が押し寄せ、日本車が台頭して住民も今や東洋人の町となったデトロイトで隠居暮らしを続けていた。頑固さゆえに息子たちにも嫌われ、限られた友人と悪態をつき合う日々であり、亡き妻の頼った神父をも近づけようとしない。常に国旗を掲げた自宅のポーチでビールを缶のまま飲んで、飲み終えると片手で握りつぶす 。ウォルトを意固地にしたのは朝鮮戦争での己の罪の記憶であった。そんなとき、隣家にモン族の一家が引っ越してくる。その一家の少年タオや同じくモン族のユアと心を通わせていくのだけれど、同じ地域に暮らすモン族のギャングが、タオに嫌がらせを加えた。顛末を聞いて激昂したウォルトはギャングに報復するが、その報復としてギャングはタオの家に銃弾を乱射し、タオの姉スーを陵辱する。ウォルトはギャング達に仕返しをしに、彼らの家に向かうが、タオの未来の為に、自らの命を引き換えにしてしまう。遺書には、愛車グラン・トリノをタオに譲る、と記されていた。

 「人種のるつぼ」という言葉がある。多様な人種,民族による多様な文化がアメリカ社会で溶け合い,新しい生活文化を形成していると考え,その状態を表現する言葉だ。しかし、最近では各人種,民族が独自性を保ちつつ,なおアメリカ人として一つの皿の中にあるという意味でサラダ・ボウルの社会として意識されるようになってきて、「人種のサラダボウル」と言われるほうが多くなってきている。

 「グラン・トリノ」は「人種のサラダボウル」に近いが、それもまた違う。やはり異なる人種を尊重するというのではなく、それよりもひとりの人間を尊重するということに重点が置かれている。それはモン族の一人「ユア」をからかい「ヤムヤム」と呼び、「タオ」を「トロ」と呼ぶなど、差別注意を払ってすらいないシーンなどでもそうだ。むしろ差別などと思っていない彼の口調からはひとりの人間を尊重している印象などを思わせる。これは2019年に公開されたイーストウッドの「運び屋」でも黒人に対して、「ニグロ」と呼んでしまう老人が登場人物だった。

 ウォルトとタオは異なる人種の関わり合いの中で「グラン・トリノ」という共通のものによって通じ合ったのではない。ポーランド系、モン族系とついてはいえどもアメリカ人としてかわりのない彼らが友情を芽生えさせることなどごく自然であることをこの映画は描いている。グラン・トリノはウォルトの分身だ。人を真正面から見て、人と人を繋ぐ、そこには民族も宗教も、何をも介入できないのだ。