昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

木皿泉『すいか』

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心にポッカリ空いた穴。空洞。

ぼくの心をあなたは奪い去った

俺は空洞 でかい空洞

全て残らずあなたは奪い去った

俺は空洞 面白い

ゆらゆら帝国『空洞です』

退屈な日常によって心を奪われてしまった30代半ばの信用金庫職員・早川(小林聡美)が偶然辿り着いた下宿屋“ハピネス三茶”で日常のキラメキを発見していく物語。天井に空いた穴を覗きみて、誰かと出会う。空洞を失ったと捉えることをしない『すいか』であるから、物語全編を渡って、心に空いた穴を埋めようと奮闘する登場人物を描かず、そんな穴っぽこだって大切なものなんだと認めていこうとする。20代後半の売れない漫画家・絆(ともさかりえ)、大学教授・夏子(浅丘ルリ子)、女子大生の大家・ゆか(市川美日子)の4人で暮らし、そこに教授の元教え子・間々田や就職活動中の響一など、様々な人物が訪れる。すいかを分け合うように日常の一時を共有していく。

人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。一人一人にみんな同一のところをもっているのである。

この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。

そして我々はもはや永久に孤独ではない。

荻原朔太郎「月に吠える 序」

 人間はいつだってひとりじゃない。この穏やかな日常ドラマに、どっしりと横たわる力強いテーマである。プールの水のように中身を入れ替えたいと思う人、自分は最低だ!と思って泣く人、誰かに愛されたいと嘆く人、誰かにお金を貸したことがない人、就職活動に失敗してしまった人、きっと人間はそれぞれひとりだ。ひとりぼっちの人間だ。その人がちゃんと生きているという、そんな素晴らしい出来事を誰かに認めてほしい。それだから誰かに会いたくなるし、一緒にいたいと願う。人間はいつだってひとりだけれど、誰かが“あなたも居て良し!”と言ってくれることで、やっとひとりになれる。誰かがいないと意識してひとりが存在する。いなくなってしまった人を想っているその人も、目の前にいないその人にかつて想われていたのなら、きっとひとりじゃない。空洞には何も無いんじゃなくて、そこには確かに空洞があり、誰かのいない跡があり、誰かに想われていた跡がある。その跡があれば大丈夫だ。ひとりとひとりが寄り添いあって生きているのが人間なのだから、人間はいつだってひとりじゃない。そうであるから、この物語で非日常的な要素である馬場(小泉今日子)の存在もまた、ひとりぼっちには描かれない。誰かに存在を認めてほしくて会社の金3億円を横領して、ひとりっきりで逃走中の早川の元同僚・馬場(小泉今日子)は日常を捨ててしまったことを後悔する。しかし、木皿泉の脚本はそこにも優しく光を描く。

(刑事)やっと会えました。絶望と希望の人に。社会から見放された場所で生きていくのって、絶望そのものでしょ。

(馬場)絶望はわかるけど、私のどこが希望なんですか。

(刑事)そんな絶望の状況でも、ちゃんと生きていってるところ?生きていけるってことを身をもって証明しているところ?

生きていることを祝福し、物語のラストにも優しく微笑む。馬場に早川が言う。

(馬場)早川…また似たような1日が始まるんだね。

(早川)馬場ちゃん、似たような1日だけど、全然違う1日だよ。

地球がひとりぼっちでグルグルと回り続けるように、繰り返されるなんの変哲もない日常。けど、そこには同じ1日なんてない。時計の針は同じ場所を回っているのではなくて、しっかりと前に進んでいるんだ。だから、きっと同じ1日なんてないのだ。すいかを埋めたお墓から芽が出た9話での、終わりから始まることがあるように*1。出会って別れて、穴が空いて、空洞ができる。そこに誰かがいたという証が残る。だから、きっと人間はいつだってひとりじゃない。

人の縁って誰がつくってるんでしょうね。

聞いた話では、神様があっちの紐とこっちの紐を持ってきては、適当に結んだりしてるらしいです。

昨日会うこともなかった人が、今日、なくてはならない人になってるなんて、他に説明のしようがないんですから。

ちょっとしたことで、すぐにほどけて傷ついたり、なかなかほどけなくてイライラしたり、そしてどんなに親しくなっても、最後は必ずほどけて、終わりが来るのです。

 

*1:乃木坂46『サヨナラの意味』の歌詞/始まりはいつだって そう何かが終わること