昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

アリ・アスター『ミッドサマー』

不気味な祝祭…アリ・アスター最新作『ミッドサマー』本編映像 - YouTube 怪作。2018年に公開された『ヘレディタリー/継承』で長編デビューを果たしたアリ・アスターがまたもA24とタッグを組んでスウェーデンを舞台に作り上げた長編映画2作目。豊かな色彩と白夜の明るさでもってホラーを描き、「これが“僕の映画”だ!ホラーというジャンルなんかに縛られないぞ!」というアリ・アスター印。命の更新の“落下”するシーンを目の当たりにした主人公たちが畏怖したように、観客の少し浮ついた心を凄惨なカットで一気に落下させるのはとても映画的だった。村の思想などは看過できるものではないけれど、沢山のコメディ的なシーンが散りばめてあり、「笑ってはいけない場面で笑ってしまうのだ」という蛭子能収の言葉が脳裏に浮かぶ。そう本作を観て一番に蛭子能収の作品を思った。蛭子能収のマンガは突如として我々の理解を飛び越えた世界がやってくるのだけど、至極当然であるように物語はなんの躊躇もなく進んでいく。この読者と蛭子能収が仕掛ける装置の範疇のズレが面白さに変換されていくのは、アリ・アスターが『ミッドサマー』に失恋映画の一面を見出してしまうことに似たものがあるように感じる。

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

蛭子能収は悪夢の生態を熟知していて、しかも悪夢を恐がっている。恐いからこそ、悪夢をペットにする快感も人一倍、感じてしまうのであった。

(中略)

蛭子能収は芸術家である。芸術家というのは、この世の夢なのである。ことわっておくが、小生は、マンガは芸術であるとか、芸術として認めよというような、ギロンをしているわけではない、そんな傍点つきのカンネンに用はない。芸術家とはつまり危険人物である。

なんだかわかんないけど面白い、というようなものほどコワイものもないが、なんだかわかんないけど面白いものほど面白いものはないのだ。蛭子能収のマンガが面白いのは、それが我々の抑圧された欲望である夢でありつまりは人間の不思議さを、かいま見せてくれるからにほかならない。

蛭子能収『地獄に堕ちた教師ども』

-ナゼ、こんなに面白いのか 解説 南伸坊-

これは蛭子能収のマンガに対する南伸坊の解説であるが、そのままアリ・アスター『ミッドサマー』にも重ね合わせることができそうではないか。壁画の示唆的な絵をそれとなく見せることや巧みな色彩感覚に支えられた美術セットは芸術と言っていいだろうし、「これは“ホラー映画”ではないよ」とニヤリと笑うアリ・アスターはまさしく危険人物である。この村で行われていることの全編をダニーの内部の出来事として思ってしまいたくなるのは、悪夢がとてつもない緻密さでリアルに再現されてしまうからでしょう。これは現実ではない非常にリアルな悪夢なんだと安心したくなる。大切なものを失ったダニーがドラッグでトリップし、植物が自分の手から生えているような幻覚を見てしまったりするうちに、現実と非現実の境目がつかなくなってしまう。悪夢が現実に侵食してくるのがまさにトラウマであり、それを白昼に晒すアリ・アスター。ラスト彼女が笑うシーンで物語(悪夢)の終焉ということや自分の居場所の発見ということに「癒し」を感じることもできるが、やはり悪夢が現実に覆いかぶさってしまったことに、どうしようもない恐ろしさがある。上映時間は147分と少し長めであるが、不意な昼から夜への切り替えや、どこか気持ちよくもあり煩わしくもあるサウンド設計によって、目を離せないという以上の「我々は一体どこにいるんだ」というような没入感さえ体験できる。次回作にアリ・アスター監督が“ダークコメディ”を挙げていることに、絶大な期待をもって喜びたい。

 

 最後に、かもめんたるのコントや中嶋らもの小説の不気味さも感じたことを付け足しておきます。


かもめんたる コント 「マッサージ」(2012年4月サンミュージックGETライブ)


かもめんたる コント「クリスマスパーティー」

ミッドサマー(字幕版)

ミッドサマー(字幕版)

  • フローレンス・ピュー
Amazon