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呉 美保『きみはいい子』

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人と人のつながりの場面で現れる桜の花びら

この映画では、基本的に人が出会う場面や理解し合ったときには、あきこ(喜多道枝)の家に新米教師の岡野(高良健吾)が謝罪に来る場面や、雅美(尾野真千子)がはなちゃんママ(池脇千鶴)に抱きしめられる場面などで、桜の花びらがメタファーとして映るショットが、あいだか前後に編集されている。また、新米教師が児童虐待をしているであろう家庭に向き合う場面では、桜の花びらはない。それは彼らの間につながりがないというよりは、新米教師である彼自身が桜の花びらの代わりをしているという方が適切であるようにみえる。

閉塞感のある見せ方

母親が子供に対して手を上げてしまう場面では、四角くく区切られ、ある種の閉じ込められたような空間を作り出すことで、彼女ら二人だけの空間で起こってしまっていることを、より強く観客に対して意識させ、まるで、開いている扉からのぞき見ているような印象さえを抱かせている。社会から孤立した空間で行為が行われていて、社会と彼女らの間に介在する第三者の視点を観客に対して与え、切迫感をつのらせる。
また、陰影が強く、暖色の少ないことにより、どんよりとした不安で嫌な雰囲気を出している。

自分とは異なる空間にいる他者

岡野が子どもたちと給食を食べている場面。廊下から音が聞こえ、岡野が見にいくところである。カットを使わずにカメラは横にスライドし、教室で給食を食べる普通のクラスと特別支援学級の生徒を並べる。決して、関係のない他者ではなく、我々のすぐ隣に、見えていないだけである関係を意識させる。新米教師である彼は首だけを出し、覗き込むようにして見る。見えていないものや気づいていないものへの、気づきが後半で彼を成長させていく。
物語の後半で、他者の空間に踏み込もうとする場面では、カメラをスライドさせず、ここでは対相手の空間は映さない。さらに扉も閉まっていて、明確に壁があり、試練であることを暗示している。

緊張感を与える演出

電話で保護者と話をする場面であるが、相手の口元が映る3秒ほどの短いショットで入り、ここでも対相手(他者)を意識させてくる。そして、この短いショットが我々に強い緊張感を与える。教師もはじめは、笑いながら話していたが、観客と同様に緊張感を持つ。ドキッとする。

子供の目線と大人の目線

教師たちが保健室で、暴力を振るわれているかどうかの聞き取りをする場面。それに伴い、大人たちは言い争いをする。カメラを子どもの位置に合わせ、大人たちの顔はまったく映さず、切り離している。大人は子供の目線にたって話すことはできていない。
岡野が神田さんが鉄棒から見ていた景色に気づく場面でも、子どもの位置にカメラを合わせることで、暴力を受けていた子供が見ていたであろう視点から見ることを、観客に要求する。決して、観客は蚊帳の外にいる存在ではなくて、第三者として介入することが必要なことであると訴える。

寒色から暖色へ

この映画では、理解し合えたときやわかり合えたときには、桜の花びらが用いられるが、同様に明るい日が差してくるなどの、寒色から暖色へと移り変わっていく方法も用いられる。

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カメラの視点やカットを用いて、心が通じていない登場人物たちや社会から孤立した空間を作ることで、第三者の視点や介入、助けを社会に対して、とても重要であることを訴えている。
「きみはいい子」は登場人物の成長や再生を描いているが、これは観客にも同様に求めているのだ。ただの傍観者であってはいけないのだ。