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シルヴィア・プラス短編集『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』

f:id:You1999:20220827175544j:imageシルヴィア・プラスのショッキングな自死から半世紀以上を経て、新たに発見された未発表短篇『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』。アメリカで大きな話題となった2019年から3年後、ようやく邦訳され、日本でも刊行された。物語は少しばかりの躊躇を胸の隙間に抱えながらも、主人公メアリが両親に促されるままに汽車に乗りこみ、終点を目指すシーンから始まる。最初のうちは車窓から眺める景色に胸を躍らせ、食堂車のジンジャーエールに、美味しい!と感激するのだったけれど、しばらくして終点の第九王国のことも、その先でどうするのかもなんにもよくわかっていないことがぼんやりとした不安となってメアリを苦しめていく。メアリと同乗した女性は、「この路線には帰りの列車がないこと」「第九王国は否定の王国、凍りついた心の王国だということ」「この汽車に乗る乗客たちはみんなとことんすり切れてしまって、もはや自分がどうなってもいいと思っていること」などを教えてくれる。メアリは途方もない焦りと絶望に抗おうと、「汽車から降りたい、そもそも両親が乗せただけで私は乗るつもりじゃなかった、帰りたかった」と言うのだけれど、女性に「でも、文句は言わなかったんでしょ?帰らないことを選んだのでしょう?」と返答されてしまう。汽車は目的地を目指し、止まることなく、レールの上をゆっくりと進んでいく。

本作は1952年12月、スミス・カレッジ在学中に、ロバート・ゴーラム・デイヴィス教授の創作科授業で書かれ、当時プラスが抱えていた精神的葛藤が多分に反映されているものだという。また、それを考慮しなくとも若者の自立にまつまる欲求と不安の物語として、ほとんどの読者が実感を持って読めるのではないかと邦訳した柴田元幸はあとがきで綴っている。まさに自分の力では操作できない汽車が“レール”の上を走り、もはや止まることができないかもしれないという不安感に包まれながらも、非常停止の紐を引っ張り、自らの足で反対方向へ走り出す爽快感と希望に満ち満ちたラストへの活力は美しいものがある。また、メアリと女性との一連の会話は、精神分析的な自己との対話とも言えそうであって、前向きな感情を手にして、抑圧から解放された自己とレールを外れた場所で出会うおうとしたことを目指そうとしたものであるのかもしれない。しかし、プラスはこの短編執筆の翌年、1953年8月24日に医学的に記録された最初の自殺未遂を行っている。

そのあとに続く、『ミスター・プレスカットが死んだ日』、『十五ドルのイーグル』、『ブロッサム・ストリートの娘たち』、『これでいいのだスーツ』、『五十五番目の熊』、『ジョニー・パニックとの夢聖書』、『みなこの世にない人たち』にもプラスの経験したことが多分に反映されているのだという。しかし、現実とは違った方向へとその結末は向けられていて、どの短編も暖かい方へと向かっているように感じられる。それはプラスがフィクションの力を信じていたのだろうというふうにも思えるし、読者が漠然と感じているプラスの悲痛な筆致や抑圧からの救済を願うものとはまた違った印象を受け取ることができるだろう。

個人的には『ミスター・プレスコットが死んだ日』の冒頭シーンがお気に入り。

 年よりのミスター・プレスコットが死んだ日は晴れた暑い日だった。あたしはママといっしょにグラグラ揺れる緑のバスの横並びにすわって、地下鉄の駅からデヴォンシャー・テラスまでガタゴトガタゴトと揺られていった。汗が背中を流れるのがわかって、着ている黒いリネンが座席にべったりくっついた。体を動かすたびにリネンがバリバリ音を立てて席からはがれて、あたしはママの方を、「ほぉらね」っていう感じの怒っている顔で見た。べつにママのせいじゃないのに、みんなママのせいだって言わんばかりに。でもママは両手を組んでヒザにのせてすわって上に下にはねるばっかりで何も言わなかった。まるっきり運命を甘んじて受け入れますって顔。p37

日差しの中を緑のバスが走り、横並びの親子のショットが映し出される。子どもは黒いリネンの心地悪さに怒りながら、母親の方を見る。誰かが死んだけれども、そんなことよりも着ている服のことが気にかかっているのがリアルであるし、それほど近いしい人が死んだのではないこともわかるだろう。まず、暑い空気が身に纏まれ、次に2人の親子が並ぶ姿にガタゴトガタゴトというバスの音が聞こえ、じめっとくっついたリネンが気分悪く剥がされる。その細部へのクローズアップの仕方に心地よく物語は入っていける。この嫌そうに向けていた視線が、ラストの「ママを見ずにあたしは買って出た」という部分へ繋がっているのも成長のものだからを形作るものとして良い。たとえ好ましくなくとも、誰もが誰かに支えられながら生きていくのだということをひとりの少女がなんとなく理解しながら閉じられる物語であって、「安全に転ばずに下りられる」ように手を貸す様子を眺めながら、同じようにその手を求めている誰かがいること、そして、それを見つけられるのははたして誰なのでしょう。