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岡野陽一 第一回単独公演『岡野博覧会』

f:id:You1999:20220603170035j:image草月ホールにて、岡野陽一による第一回単独公演『岡野博覧会』を観賞。ホール内に入ると舞台には暖かみのあるライトが降り注ぎ、ドラム缶やベンチなどノスタルジックな風景が広がっているのだけれど、座席にはなぜか3Dメガネが置かれている。お笑い芸人のライブには珍しく、男女の比率が7:3くらいでした。そのせいかなんだか室内が暑かった気がする。

ひとりの女の子が風船が高いところに引っかかってしまって泣いている。そこに岡野陽一がやってきて、棒を使って風船を割ってあげる(割ってしまうのではないのだ)。パン!という音と同時に女の子は泣き止み、「風船を割ってくれてありがとう!」と言うのだ。そして、岡野陽一が微笑み、暗転し終わる。というショートショートネタで『岡野博覧会』は幕を開ける。OP映像では、岡野陽一が街を練り歩く様子を背後のショットで捉え、いつもの黒いジャンパーと緑のカーディガンを着ている姿が交互に映し出される。

ふたつ目のコントは、あまりにも盗人らしい格好をした岡野が少年から財布を盗んだのでないかと疑いをかけられることから始まる。岡野は「むしろこんな格好をしている奴は盗めない」と少年に言う。こういう格好でもして、周りからの視線を集めないと盗んでしまうらしい。服を着て、自らのアイデンティティを示すことによって、そのアイデンティティを取り去ろうとしている。つまり、服を着るということに治癒を求めているのだ。しかし、ラスト、無銭飲食をしていたことが明らかになり、彼は逃走する。その滑稽な後ろ姿がとても悲しく思えてならなかった。

この単独公演には、コントとコントの間には岡野陽一が「着替える」様子と「食べる」様子が用意されていた。本当に岡野陽一が服を着替えて、果物を切ってスムージーにして飲むなどのことを、ただ無言で行うのだ。このふたつの行為が本公演のテーマとしてあるのだろう。それを眺める時間があまりに奇妙であったのだけれど、しかしめちゃ面白いのだ。普通の生活が“見せ物”になった瞬間に良くも悪くも価値が出てしまう。その批評性が岡野陽一だろう。「着替える」「食べる」。人間に不可欠なそのふたつの運動を通して、“実存”のようなものをまざまざと見せつけられる。支援物資としてまず最初に届けられるものも衣料と食料であるのだ。OP映像で黒いジャンパーと緑のカーディガンを着ている姿が交互に映し出されたのも、その後のコントで、父親のお墓を遺言のとおりにパチンコ台を“着せる”のも、そういうことだろう。「食べる」ことをテーマにしたコントでは、8万円をちらつかせ観光客にハワイで吉野家を食べさせようとする男が登場した。その男は、お金の誘惑なんかに屈してハワイで吉野屋を食べてはいけない!と諭すためにそういった活動をしていたようで、一泊二日でハワイに来た若者に「ハワイで吉野屋を食ったら母親が泣くぞ」と言ってやるのだ。そうした自律的な態度を求めた矢印は、今度は私たちに向かう。「3Dメガネを装着してください」というアナウンスとともに、多くの観客がメガネをつけるなか、岡野陽一が現れ、「つけていない人はなんなの?」、そしてメガネを装着している人には「そんなことをして恥ずかしくないの?」と聞くのだ(わたしは言われた通りに3Dメガネをつけてました)。つけている人とつけていない人が2人いればバランスが良いとも言う。周縁化されたおじさんを描いてきた岡野陽一という男は、正義の輪郭線をぼんやりとさせる。この社会では共通意識から外れると狂っているひととされてしまう。終演後、前日の公演では拍手がもらえなかったから少しずつ修正して拍手をもらえるようにしたと明かしたラストのコントは、妖怪が人間の子どもを育てるというものだった。「着替え」て「食べ」てきた本公演のラストは他者を育てる、教育するというもので幕を下ろす。「お墓(死)」をテーマにしたコントなど、周縁化されたものをまるっと抱き上げながら、生と死までをつなげていったのだ。わたしたちは明日もそれぞれの生をまっとうし「着替え」て「食べ」て固有性を刻み込むのだ。f:id:You1999:20220715213652j:image