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吉田靖直『持ってこなかった男』

f:id:You1999:20210410234617j:image“持っていなかった”ではなく、“持ってこなかった”と銘打ってある本書は、トリプルファイヤー・ボーカリスト吉田靖直による初の自叙伝である。自叙伝であるが、これはとんでもない文学なのである。持ってこなかっただけで、俺は持っていないわけではない。その気になれば“持ってくる”ことも可能なはずなのだという、その諦めの悪さ、堕落しているさま、「俺はまだ本気出してないだけ」というようなフィーリングに包まれていて、私たちもまたそれを信じたい気持ちに駆られながら生きているのだ。Creepy Nutsのリリックを借りれば、“かつて天才だった俺たちへ”ということかもしれないけれども、

苦手だとか怖いとか 気付かなければ
俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか 思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた
すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ
ずっとコマ付きのチャリを漕いでた
力が弱いとか 鈍臭いとか
知らなきゃ俺が地球を守ってた hey
破り捨てたあの落書きや
似合わないと言われた髪型
うろ覚えの下手くそな歌が
世界を変えたかも ey
かつて天才だった俺たちへ
神童だったあなたへ
似たような形に整えられて
見る影もない

Creepy Nuts『かつて天才だった俺たちへ』

私たちは等しく“持っていた”はずなのに、それを持っていくことなく、人生は進んでしまった。かつて天才だったとそんな卑屈な精神だけを持ち合わせて。ページをめくっていくたびに、“持ってこなかった”と“持っていなかった”の線引きは耐え難いほどにされていき、ある一方に立たされてしまうのだけれども、吉田靖直はまだその線の狭間でしぶとく、のらりくらりと浮動している。何かに期待しては打ち砕かれていく、そんな瞬間がいくつも描かれていく。恥ずかしいという自意識に駆られず、ゆずのグッズで部屋をいっぱいにし大音量でゆずを流すことができていたら、運動会で、文化祭で…と。しかし、そんなことをずっと言ってもいられず、過去への眼差しはだんだんと今日の足元に向けられるのだ。そして、ゆらゆらと浮動しながらもそのあとにしっかりとゆっくりと堕落するのであって、それが素晴らしいのだと思う。これを文学と言わずなんと言おう。

吉田靖直の自叙伝はどうにも町田康小説の雰囲気がある。パチンコやお酒、寝っ転がるという運動からも連関を見つけてしまうのはそう難しくない。世間を内側から斜めに見たり、他人を批評したりするのだけれど、そのあとに自分自身にそれが返ってくる笑いである(まったく滑稽ではなくて、その切実さが真に笑いたらしめている)。しかし、それは誰にも内在しているものであって、笑いながらも切なくなってしまうのは、『告白』の熊太郎や『くっすん大黒』の登場人物を思い描いてしまうからであるだろうし、それらのキャラクター同様、吉田靖直を愛おしく思ってしまえるのだ。ありていに言ってしまえば、これは私だ!というような太宰治人間失格』のエピソードみたいな連なり、自分自身の内側にあるそんな側面を見つけ出してしまうことの反復によって、ページをめくるたびにその愛おしさや親しみは補完されていく。と、同時に、彼らがしっかりと文学にぶつかっていることに感動してしまうのである。

そんな町田康のエッセンスを含んだ吉田靖直の自叙伝であって、最も町田康らしい登場人物、高校時代の同級生、加嶋くんが登場するエピソードはどれも瑞々しくて好きなのです。加嶋くんは吉田靖直以上に町田康の小説に存在しているような人間なのだ。自分の考えをはっきりと言う男であり、そのためにたびたび空気を凍らせてしまう加嶋くん。音楽をよく知り、服のセンスも良いのだけれど、2年、3年と年次が上がっていくに連れて、とつぜん坊主になって現れたり、トイレのガラスを蹴破ったりするようになっていく。しかし、それはグレるとかそういったことじゃないのだ。

なんで加嶋はわざわざ自分から煙たがられるようなことをするのだろう。加嶋の攻撃的な発言や行動は、ヤンキー的なものでとなければ尾崎豊のような10代の正義に裏打ちされたものにも見えなかった。ステージ上でギターを破壊するようなかっこいいものでもない。誰に取っても何の得もない行動。だから、切実さがあった。加嶋には、私には感じられないものを感じとる力があり、自分を曲げることのできない潔癖さがあった。p65

まるで町田康の登場人物なのである。そのどうしようもなくてみっともない複雑な人間の魅力を表現している。


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WOWOWぷらすと』で話していた、高校のころにBLANKEY JET CITY赤いタンバリン』を演奏をしたことや3つバンドを組んで挑んだ文化祭出演オーディションで3つとも落ちてしまい出場できなかった話なども書かれている。滑稽すぎる…と項垂れながらもだんだんとその苦しみが、苦しんでいるが故に肯定されていく。落ちていったことで文学に差し迫り、神を見つけるのである。

 その時私は、名前を忘れたがある高名な音楽家にまつわる逸話を思い出していた。多くの弟子を抱えていたその音楽家は、「弟子に『私には才能がありますか』と聞かれたらどうする?」と友人から尋ねられた際、「だれであっても『お前には才能がない』っていうことに決めてるよ」と返したという。

 どういうことか。つまり、本当に才能があるやつなら師匠に何を言われようとも自分の才能を信じて壁を乗り越えられるということ。そこで諦められるのなら最初からその程度の器だったのだ。

 きっと、そういうことである。ここで文化祭に落ちたのも、音楽の神様的な存在が私に与えた試練なのだ。普通のやつなら、小5からギターを始めているのに文化祭にすら出られないとした、能力の限界を感じてバンドを辞めてしまってもおかしくない。しかし、私はそこで終わるつもりなどさらさらなかった。そのこと自体が、私の才能を証明している。p72

自分自身の中から“神”を見つける瞬間なんてまさに町田康じゃないか、と感動してしまう。加嶋くんもまた彼に内在する神がいたのであり、吉田靖直が言うような潔癖さがあるのもそのためであるのだと思う。多少の狂気を孕みながら、面白く、そして、真面目に現実に居座っているからこそである。神を見つけるということは、この切実さを真に受け止めながらも堕落する必要があって、ここがとても面白いところであると思う。これまでに文学に迫るなどと書いていたけれども、『持ってこなかった男』を読むときには町田康を読むときのようなことを踏まえていた方が良くて、それは『屈辱ポンチ』の文庫に寄せられている保坂和志の解説に書かれているのである(この解説めちゃ素晴らしいのだ)。

町田康の小説の主人公もまた一見ものすごい怠け者のように見えるけれど、真面目に生きている。しかしもしかしたら主人公たちの真面目さは最後まで理解されなくて、「一見」どころか徹底的な怠け者としか思われないかもしれない。そうだとしたらそう思うその人が、サラリーマン根性というか社会人根性で町田康を読むからだ。「文学というものは普通に社会で生きるのと別の価値観や感覚で読まなければならない」と言っているのではない。いざというときになると、普通に社会で生きる価値観や感覚なんて何ほどのものでもなくって、人間には文学が迫上がってくる。

神を見つけるには堕落するという、文学に迫るという必要があって、この本を読んで、“救われる”とかそういったことは少し適していなくて、救われると思ったその時点で救われることはないのであって、むしろ普通に生きていては到達し得ない何かに向けて歩いていて、それについて書かれているということに心揺さぶられるのが『持ってこなかった男』との向き合い方のようにも思えるのだ。