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ジョー・タルボット『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』

f:id:You1999:20220802114806j:image小さな女の子が立ち止まり、防護服に身を包んだ大人を下から見つめている。水質汚染放射線などで住めるような場所ではなくなっているのだけれど、そこに住むしない少女だ。誰かが演説している。バスが来ない。交通インフラがとどかなくなってしまっている見捨てられた場所で、ジミーとモントはスケートボードで“止まってしまった”街を走る。街中に過去と未来が入り混じっている。ジェントリフィケーション(街の高級化)によって変わっていく街。富裕層が暮らし、そのすぐ周りを貧困層が暮らす。サンフランシスコという街が持つそのような側面と同様に、当然、人々にもあらゆる側面がある。といったように、映画終盤のモントによる演劇シーンが表すものはサンフランシスコそのものだ。都市開発ではじき出されてしまった人々、黒人コミュニティでの「男らしさ」を演じなければならないことから起こる分断など、左右で違った容姿を反転させながら、モントはいろいろな側面を持ったサンフランシスコを体現しようとしている。しかし、SNS投稿、芝居、その他いろいろ、それだけでは語り尽くせない“側面”があるのだと抗ってみせる*1。そうであるから、モントはジミーのアイデンティティ(家)の別な側面をも暴いてしまう。

なによりも演出の巧さだ。最初のシーンやジミーと母親のバス*2でのシーンなどには、ジョー・タルボットがいうように、小津安二郎の“場”を立ち上がらせるような、無表情のリバースショットがある。小津映画にとって、まずもって大切なのは俳優たちの表現ではなく、その「場」であるから、本作においても「バスが来ない虚しさ」や「生き別れになった母親との感動の出会い」といったことにならず、バスが来ない状況、生き別れた母親とバスに乗り合わせる状況だけが存在している。街を舞台にした本作が、「場」をつくることに注力していることに共鳴しているのは、必然であるように思える。最初のスケボーで走るシーンには、スケボーの街を走る運動と止まってしまった街の対比が悲しいほどに描かれている*3。すごいショットの連なり!

タルボット監督「僕達の映画に登場するジミーも、(西部劇の)カウボーイが服を着替えないのと同じで、最終的に赤色のシャツとニット帽、ズボンなどを組み合わせることになったのです。これがサンフランシスコの英雄的な服装だと感じた訳ですね」

https://theriver.jp/lbmis-interview/

決定的な視線の演出やカウボーイらしき英雄的服装は、まさしくクリント・イーストウッド*4。会話なんてものは僅かで良くて、あとは視線のショットだけで、ロマンス、サスペンス、憎しみ、悲しみ、喜びも愛も含んで、すべてを語ってしまえるのだ、という映画力!屋根裏部屋でのシーンと商品となってしまった家。スケボーを壊し、バス、スケボーでは行けない遠くへと舟を漕ぐジミーと暗闇で立ちすくむモントのシーンの切なさ。ジミーの街への憎しみと愛には、暗闇で光る希望のような暖かさと悲しさがあるのだ。

都市開発は進んでく
君のこと嫌いにならないように頑張ってるこちらは

KID FRESINO 『 Cats & Dogs feat. カネコアヤノ*5

 

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*1:コフィー、ジミー、モント、3人で昔のことを懐かしく話していたのに、日が変われば、距離ができてしまうシーンなんかはつらい…。コフィーも「男らしさ」などアイデンティティの模索をしているからこそ起きてしまう分断…。つらい…。

*2:どこかへ去ってしまった母親とバスの中で出会うという、生活圏の狭さ。ジミーと同様に、母親もまた街の呪縛から逃れられていないのだ

*3:私は全くわからなかったのですが、2度ほど登場する裸の男性は、まさしく狂人ではあるのだけれど、ジェントリフィケートされてゆく街の中では、“狂人のように”見えてしまうということを表しているらしい(実際には、狂人ではなく、街の変化に正しく抗っている人)。そうであるから、大勢のバスに乗った人々が「変態!変態!」と叫ぶなか、「なんて街だ…」「今ごろ気付いた?」となる。そして、裸と防護服という対比。すごい… https://youtu.be/ED_8kYbSkzk

*4:監督は『波止場』(1954)のマーロン・ブランドを参考に、と言っているけれど

*5:中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』もまた同じ流れの中にある