昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

ラジオの音が聞こえた。

f:id:nayo422:20240714193054j:imageニューヨーク単独ライブ『そろそろ、』東京公演の最終日に駆けつけた7月7日(日)。帰りの電車でニュースを開くと、東京都知事選挙の結果が表示された。私はなぜかナンニ・モレッティの映画を思い浮かべた。『ナンニ・モレッティのエイプリル』(1998)というイタリア映画は、「メディア王」ベルルスコーニ政権が誕生する90年代を描いている。カネと人脈を用いて成り上がり、テレビ・新聞・出版を支配し、ついにはACミランをも手中に収めた男が、ベルルスコーニである。揺れ動く政治状況もあってか、ナンニはミュージカル映画の撮影を中止して、政治ドキュメンタリーを制作しようかと考え始める。ところが、妻のお腹の中には赤ちゃんがいて、出産もまもなく始まるだろう。さまざまなことに気を取られていると、また選挙の時期がやってくる。日々の生活のあれやこれやで、映画制作のこと、ましてや政治のことなんて考えてられるわけがない。子どもが生まれ、生活は続く。ナンニは、国会議員を2年務めた作家にインタビューしたり、アルバニア移民について取材したりする。移民にまつわる問題は2024年の今でもイタリアで継続中だ。2022年には極右政党から出馬したメローニがイタリアにおける初の女性首相として就任している。しかし、どうやらメローニはその巧みな手腕で中道右派とも協調関係を形作りながら、EUでも存在感を発揮しているらしい。極右という危険な印象は今のところ鳴りを潜めているようである。話が逸れた。今回の都知事選挙はまあまあ大きい話題だったのではないかと思うのだけど、日本には果たしてナンニのように、生活と密接に結びついた映像を撮影するひとはいるのだろうか、と。そんなことをなんとなく電車のなかで考えたのだった。政治は私たちの生活と密接に結びついている。しかし、その生活のために政治について考えられなくなってくる。画面のなかで右往左往するナンニ・モレッティは私たちの姿かもしれない。

三宅夏帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本は、そのタイトルが示す通り、労働によって読書ができなくなってしまう問題を、明治、大正時代まで遡って分析している。そして、読書ができないという問題は現代に限ったことではないことがわかってくるのだ。大正時代から「教養」はエリートのためのものだった。そう、労働者階級がエリートに近づこうとするために、読書は求められたのだ。

私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正〜昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。だとすれば、労働者と新中間層階級の格差があってはじめて、「教養」は「労働」と距離を取ることができるのだ。p80

『花束みたいな恋をした』(2021年)の麦くんは、イラストレーターの仕事を諦め、就職して、「パズドラ」はできても「読書」はできない、という日々を送るのだった。でも、そんな麦くんも自己啓発書は読むことができていた。それはなぜか。自己啓発書は、読書に必要不可欠なノイズを除去するからだと三宅夏帆は分析する(牧野智和『日常に侵入する自己啓発--生き方・手帳術・片づけ』)。一方、読書は労働のノイズになるのだ。読書なんてしていたら、労働ができなくなってしまう。労働ができなくなってしまったら、生活が破綻してしまう。日々の生活のあれやこれやで、映画制作のこと、ましてや政治のことなんて考えてられるわけがない。ナンニ・モレッティのように、生活が何よりも優先される時期がある。

しかし、映画を観ればわかる通り、ナンニ・モレッティもいつまでと慌てふためいていたわけではなかった。やがて映画制作は開始し、政治について想いを巡らせるようになったのだった。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』においてもそこについて言及されている。

麦だって、働きながらイラストを描けばよかったのに、と私は今も思っている。もちろん社会人い1、2年目は無理かもしれない。忙しいかもしれない。しかし仕事に慣れて数年経って、きっとイラストり再開するタイミングができたはずだ。それのなにが悪いのだろう。イラストレーターになるためには、覚悟を持って全身全霊で頑張らなくてはいけない、なんて誰が決めたのだろう。p260

このことは、私も過去のエントリーで書いたことでもある。交換可能性によって常な不安感に苛まれている私たちにおいて、であるかこそ希望はあるのだ、と。

麦と絹も勿論私たちも、世間の内にいるわけであるから、どうしようにも適度にバランスを取ることを強いられる。適度にバランスを取るということは、どれにも同じずつだけ触れるということではなくって、ときには仕事の割合が大きくなったり、ときには趣味の割合が大きくなったり、ときに恋人の割合が大きくなったりなどなどするわけである。そういう割合を調節するために少しずつ持っているものを別のものと入れ替えていく。麦はイラストを描く仕事から就職、絹と共有していたものから『人生の勝算』『パズドラ』へと入れ替え、絹もまたフリーター、就職、転職、そしてそのときに応じた様々なポップカルチャーを入れ替えながらバランスを取っていく。今までは同じ割合であった部分が徐々にズレ始め、最も大きな部分が2人の間で変わってくのだ。

坂元裕二×土井雄泰『花束みたいな恋をした』 - KINOUNOKYOUkinounokyou.hatenablog.com

そして、もっと軽やかに持っているものを入れ替えたりするには、「半身」で労働というものに向き合うことが重要なのではないかと、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、ビョンチョル・ハン『疲労社会』やジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか: バーンアウト文化を終わらせるためにできること』を援用しながら、処方箋を与えるのだ。私たちは、社会の構造によって、剰余価値をたえず生産し続けようとしてしまう。そして、それが自由意志だと思っているが、そうではないのだ、と。また、自由であるがゆえに、その意思決定の重みが自己責任的に付与されてしまうのだ、と。

だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが前線の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働くこうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。p265

ナンニ・モレッティのエイプリル』のラスト、ナンニ・モレッティは、バイクを走らせ、そのままミュージカル映画の撮影を再開し、踊りながら、物語は閉じられていく。映画の撮影なのか、彼の日常が映画として映し出されているのか、どちらなのかわからない、いや、映画でもあり、生活でもあるのだ。彼の映画はまさに半身を体現しているように思う。今年のニューヨーク単独ライブ『そろそろ、』にはあり得たかもしれないもう一つの世界線(人生)を描き出す漫才とコントがあった。しかしながら、私たちの人生はひとつでしか考えられない。だからこそ、今日の社会について、そして、なぜ働いていると本が読めなくなるのか、考えなければならない。

半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もがバーンアウトせずに、誰もがドロップアウトせずに済む社会ことである。まだ、絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、作っていきたい。p266