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三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

f:id:nayo422:20240315215311j:image三宅夏帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本は、そのタイトルが示す通り、労働によって読書ができなくなってしまう問題を、明治、大正時代まで遡って分析している。そして、分析を進めていくと、読書ができないという問題は現代に限ったことではないことがわかってくるのだ。大正時代から「教養」はエリートのためのものだった。そう、労働者階級がエリートに近づこうとするために、読書は求められたのだった。

私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正〜昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。だとすれば、労働者と新中間層階級の格差があってはじめて、「教養」は「労働」と距離を取ることができるのだ。p80

『花束みたいな恋をした』(2021年)の麦くんは、イラストレーターの仕事を諦め、就職して、「パズドラ」はできても「読書」はできない、という日々を送るのだった。でも、そんな麦くんも自己啓発書は読むことができていた。それはなぜか。自己啓発書は、読書に必要不可欠なノイズを除去するからだと三宅夏帆は分析する(牧野智和『日常に侵入する自己啓発--生き方・手帳術・片づけ』)。一方、読書は労働のノイズになる。読書なんてしていたら、労働ができなくなってしまう。労働ができなくなってしまったら、生活が破綻してしまうのだ。

麦くんが、イラストを描くのやめて、印刷会社に就職したのも、恋人である絹ちゃんとの生活を考えたからだった。しかし、その点において、出自による経済的・文化的な差異によって、2人は別れの道をたどることになってしまう。しかしながら、なぜ生活を考えるためにイラストを描くという夢を無くしてしまったのか。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』においてもそこについて言及されている。

麦だって、働きながらイラストを描けばよかったのに、と私は今も思っている。もちろん社会人い1、2年目は無理かもしれない。忙しいかもしれない。しかし仕事に慣れて数年経って、きっとイラストり再開するタイミングができたはずだ。それのなにが悪いのだろう。イラストレーターになるためには、覚悟を持って全身全霊で頑張らなくてはいけない、なんて誰が決めたのだろう。p260

このことは、私も過去のエントリーで書いたことでもある。交換可能性によって常な不安感に苛まれている私たちにおいて、であるかこそ希望はあるのだ、と。

麦と絹も勿論私たちも、世間の内にいるわけであるから、どうしようにも適度にバランスを取ることを強いられる。適度にバランスを取るということは、どれにも同じずつだけ触れるということではなくって、ときには仕事の割合が大きくなったり、ときには趣味の割合が大きくなったり、ときに恋人の割合が大きくなったりなどなどするわけである。そういう割合を調節するために少しずつ持っているものを別のものと入れ替えていく。麦はイラストを描く仕事から就職、絹と共有していたものから『人生の勝算』『パズドラ』へと入れ替え、絹もまたフリーター、就職、転職、そしてそのときに応じた様々なポップカルチャーを入れ替えながらバランスを取っていく。今までは同じ割合であった部分が徐々にズレ始め、最も大きな部分が2人の間で変わってくのだ。

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そして、もっと軽やかに持っているものを入れ替えたりするには、「半身」で労働というものに向き合うことが重要なのではないかと、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、ビョンチョル・ハン『疲労社会』やジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか:バーンアウト文化を終わらせるためにできること』、また、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチにおけるエピソードを援用しながら、処方箋を与えるのだ。私たちは、社会の構造によって、生活を成り立たせるために、剰余価値をたえず生産し続けようとしてしまう。そして、それが自由意志だと思っているが、そうではないのだ、と。また、自由であるがゆえに、その意思決定の重みが自己責任的に付与されてしまうのだ、と。

だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働くこうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。p265

半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もがバーンアウトせずに、誰もがドロップアウトせずに済む社会ことである。まだ、絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、作っていきたい。p266

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、本書内でも言及されているように、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』と問題意識を共有している。「半身」とは、全身で新自由主義的なビジネスに浸かりファスト的に教養を摂取するのではなく、オルタナティブな方法を模索することであった。

「既存の枠組みから自由になること」と「既存の枠組みの中で戦える知識の習得から逃げないこと」の両輪を回すことが、ファスト教養に抗いながら、ビジネス的な要請に応えていく「ポストファスト教養の哲学者」なのではないか。p210

ジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』

昔から連綿とつづくの構造を瓦解させるのはむずかしい。しかし、「なぜ働いていると本は読めなくなるのか」。そんな日常的な問題意識によって、この構造を認識するところからしか変化は始まらない。

 

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